見出し画像

動物的生物的反応は重要ではない

虐待や虐めを受けた人は過敏になったり繊細になったりしやすい。

良好な人生を送ってきた人に比べネガティブな体験に心(脳)が占められやすく余裕を失いやすい。

その余裕が無い状態が表出されたものを精神病や発達障害や人格障害や情緒障害や愛着障害やアダルトチルドレンやHSPやギフテッドやインディゴチルドレンやスターシードと言われてもいる。

家庭環境の問題だけでも母原病⇒アダルトチルドレン⇒発達障害などのように時代ごとにブームに変化があり、創作物のブームが変化していくように医療界でもブームが変化していく。同時にそれ用とした薬や高額セミナーも増えていくが全ては対症療法であり根本療法から遠のく事となる。


例えば依存という言葉は日本では一般的に悪い方のイメージがあり共依存もそうであるが、日本は欧米に比べ元々が共依存的な社会を形成してきた文化があり、それが時に同調圧力や皆一緒や村社会として批判される事もある。

依存も例えば無理なく神経質にならず健康を維持する事を常に留意している事だって健康維持への依存とも呼べる。

共依存も元々の話としてはアルコール依存症で働かない(家庭維持に貢献しない)夫を妻が収入を得る為にも家事をするのにも代わりに働き夫をアルコール依存症のままにさせておくという、いずれはより悪化していき家庭が破綻するものを共依存と呼ぶようになった(悪い意味合いでの共依存)

ただ逆に、初耳である人もいるかも知れないが古い言葉を引用するならば、刎頚の友、管鮑の交わり、水魚の交わり、士は己を知る者のために死す、などは良い意味での共依存だろうし、夫婦円満で互いに大切にし合っている、夫婦でなくても恋人でも親友でも同僚でも。そういったものも良い意味での共依存だろう。


それなので様々な分類やレッテルは大して重要ではないけど、心理的に弱った時や悩み出したり疑問を抱いた時に、何かを強く思い込んだり、他人から言われて思い込んでしまう事も往々にしてあるものと思う。

大切なのは、現在生活する上で生きていく上で困っている事は何か?将来的にどのような生き方をしたいか、どのような人生を歩みたいか?であって、症状なり病名などの特徴などに拘り過ぎると、思い込みが強くなって自分で自分を洗脳し続けてしまい根本解決から遠のいてしまう事もあります。

これは全体的な俯瞰や流れであって、人にはネガティブさも不真面目さも必要だと思います。なので一つの視点ということで。


因みに僕は発達障害者が苦手と言われている事が苦手でしたが、例えば人の気持ちを思い遣る事も意識して能動的に学んでいったら逆に依存されるくらい得意になってしまったりもしました。苦手だったのは主に心の余裕が無かったからだと思っています。

また特にネット上では意図的に失敗したりもしますね。現在の世界情勢や日本情勢、誰でも見て読む事が出来るので当然でしょう。


追記。

どの遺伝子が発現するかで少数派になってしまう事は起こり得ると思います。

一つの種でも多様性があるのは全滅を予防する役割だと思います。

人間以外にも様々な生物が存在するのは生物自体が全滅を予防する為に、人類が存在する前から行われてきた深慮な育みなのかも知れませんね。

それは希望や信仰や祈りかも知れないし、もちろん逆にパソコン内などの単なる1ファイルでしかなく、何かの実験によって宇宙や地球や生物が存在しているのかも知れない。

話の趣旨としては、ここら辺はとても余計な話ですね 笑。


追記2。

胎内、家庭環境、学校教育、職場などによって、純粋性や感受性などが抑圧され低下していく事が多々あるように思います。


追記3。

大きな逆境なり不幸なりに遭遇した人が、代償として大きな成功や幸運を求める心理が働く事も相応にあると思います。

歴史上の偉人や現代の著名人なども生い立ちが不幸である人が多々おり、その逆境や不幸がバネや原動力となって何かで大成したりもしていますが、もちろんその影では逆により大きな挫折や破滅を迎えて消えていってしまった人達も大勢いる事と思います。

例えるなら砂漠で放浪中に渇きを強く覚えている中で、水場を優先して探すのか?未踏の地への冒険を優先するのか?といった葛藤が起こる事もあると思います。


サポートよろしくにゃ(=^・▽・^)人(^・▽・^=)