可能なるコモンウェルス〈8〉

 国家は何よりもまず、「一定の領域内部において共生する人々の結合体」として捉え出される、というのが一般的な通念であろう。そのように、共生する人間集団としての「国家なるもの」に関連づけて、集団的な人間結合体の成員間における、一定の「結びつきの強固さ」を、より具体的に喚起する形容として、あるいはその成員である限りは、けっして容易に離反することができないような一定の「足かせ」として、「家族」という一語が持ち出されるということは、いつのときでもどこにおいてでも、往々にしてあることなのだと言うことができる。
 たとえばアレントも、「中央ヨーロッパの民族主義的有機体説は、いずれも、国家とは一つの家族であり、国民相互の関係は家族のメンバー相互の関係と同じであると見ている」(※1)というように言っている。しかし、これはむしろ「古来」からの家族・親族関係、もしくは血縁地縁的共同体が解体され、それに対する従属から「諸個人」が解き放たれた後に、あらためてその「解体された共同性」の代替物として、諸個人がその「自らの意志」によって、あらためて「諸個人間の」共同性を再構築する際に、その根拠として「家族」という観念を持ち出してきているものだ、とも言えるだろう。それを図式的に見るならば、「国民国家という共同体」には、古来からの血縁地縁的な共同性が「再現されている」かのようにも思えるわけである。

 しかしもちろん、かつての血縁・地縁共同体が近代の国民国家において、「そのまま再現されている」というわけでは全くない。あくまで「かつての」共同性は、一旦は否定されているのだ。
 その上で、そのように「かつての共同性が否定されたというのは、この新しい共同性が構築されるためだったのだ」として、「かつての共同体を否定したことの正当性」を根拠づけるものとして持ち出されてくる観念が、そういった「縁」として見出されるものなのだ、と言える。
 自らの意志で「家と家族」のもとを飛び出し、「より大きな家と家族」すなわち国家を、自らの意志で構築するためだったということが、かつて家と家族を「捨てたことの罪」を正当化する。その正当化において、家と家族という「共同性の構造それ自体」は、その一定の根拠として、たしかに引き継がれているのである。
 「人間の共同性=同質性」ということで考えてみれば、これ以上のものはないという結合性として、「家と家族」という観念が、ここではけっして変わることなく存在し続けていることとなる。そして人はそれを、けっして拒むことができないのだ。なぜならまず、人がもし「家族」を拒むというのならば、「その人自身の誕生」を拒絶し否定することになってしまう。そうなればその人自身はもはや、「生まれえないもの」として否定されることにさえなりうるのだから。
 また、人がもし「家」を拒絶するならば、それは「その人自身の生活」を否定することにつながるところとなる。そうなればその人自身にはもはや、「生きる場所」がなくなるということにもなりかねない。
 そのように、人の「生と生活」を根拠づけているのが家と家族であると考えられるならば、そしてもし人がそれらを否定し捨て去るというなら、人は「より大きな家と家族」を見つけ出し、自らをそこに帰属させることで自分自身の存立根拠を見出さなくてはならないのだ。具体的にそれは何かと言えば、まさしくそれが「国家」なのだ、というのがいわゆる「家族国家観」のイデオロギーとして成立しているわけである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 アレント「人間の条件」志水速雄訳

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