「見間違い」について

「見る事は見えるものが何であるかについてのある種の判断を含んでおり、そしてこの判断は見ようと予期したものよって影響される」ウィトゲンシュタイン(哲学探究)

 夜の暗がりの中で、ふと、人間かあるいは幽霊に見えたものが近寄ってみると段ボールを積み重ねたものだったなどという経験は誰にでもあるだろう。見る事はただ見ることが可能であるということだけではなく、それが何であるかについての判断や認識が含まれているから、見間違いということもおこる。普段私たちは眼に入ってくるものをいちいち判断したり認識したりしていないように思われるが、そうではなく見慣れたものには気をとめないほうが効率的であるということなのだろう。

いっぽうデッサンにおいて私たちは見慣れたもの、つまりそれが何であるか判断され、理解されたものを描くことが大半だが、いざ描こうとすると、見慣れたはずのものが見慣れない初めて見るようなものに変わっていくというような経験をすることがある。それは見慣れたものとして処理された経験や記憶に頼ってもそれを描き表わすことができないからであり、もう一度それを見るということをやり直すことで、自分の経験を更新しなければならないからだ。

過去の美術作品のほとんどはいわゆる見慣れたものを描いてきたと言えるだろう。なかには描かれたものが現実化すれば陳腐であるとかグロテスクであるとかいった理由によってとても美しさなど感じることはできないだろうと思われるものなどもある。それらが美術作品として美しさを宿しているのはその作者の描き表し方に拠っているのであり、描かれたもの自体に拠っているわけではない。

ところでそれが何であるかということが判断できないとき、私たちは強く動揺したりそれに引き込まれてしまったりするくせに「なあんだ段ボールか!」とわかった瞬間、見向きもしなくなる。つまりそれは判断されてしまったわけで、それが人間のようにも幽霊のようにも見える状態のとき、私たちの心の中ではどのようなことがおこっているのだろう。

そのことについて説明することは難しいことだが、私は美術作品を鑑賞するときも同じような経験をすることがある。つまり描かれた作品が何であるか簡単に判断を下せるようなものだと、もうそれ以上鑑賞することに耐えられなくなる。逆に判断できないもの、なかなか見終わることができないものにはとても強く惹かれてしまうのだ。

これは鑑賞者の経験や年齢によっても違うのだろうが、ものを見るときに含まれている判断が、美術作品を鑑賞するときの美的情感の質に作用するのだとしたら、興味深いことなのではあるまいか。

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