「強いられて在る」ことについて


 以前の現実は目前に広がるそれであったし、私たちは自由に振る舞うことができた。しかしコロナ渦中の私たちは目前に広がるものを前にしてどのように振る舞えばよいのかを、ニュースや専門家や政治家の御託に頼らなければならない。

コロナ渦であるから以前のように振る舞うことが許されないだけのことなのであり、早くもとの現実に戻ってほしいと多くの人々が願っている。


 私が行動変容を強いられてはじめて思い至ったことは、コロナ以前の行動様式もまた、強いられて出来上がったのではなかったかということだ。それとも、それ以前の行動様式というものは自然に出来上がったものであって、強いられて出来上がったものではないなどと言うことができるだろうか?

思い返してみれば、私たちは皆子供の頃からその場にふさわしいとされる振る舞いを強いられ、自らを矯正することで現実に参加してきたのではなかったか?コロナ渦の私たちは、子供時代の躾けを再度受け直しているようなものではないのか?もしそうなら、誰がその躾けを施すのだろうか?


 実はこの「強いられて」という言葉は多義的なのであって、今回の「ニュー・ノーマル」や、子供の頃に受けた「躾け」などに限定されるものではない。常日頃から人は他者の眼に晒されることで自らの振る舞いを「強いられて」いるのだし、生涯の伴侶を得て充実した生活を送っている人々であっても、生活を共にすることによる煩わしさを「強いられて」いることによってその幸福は成り立っている面があるだろう。幸福のような歓迎されるべき状態であっても、強いられるということが含まれているのだ。

人は本来なにかを強いられている存在なのだし、自由意志による振る舞いも、強いられた条件なしには振る舞えない。いや、強いられることなくして人は存在し得ないのかも知れない。自ら望んでこの世に生を得たものなどあるだろうか?生物は皆、強いられてこの世に生まれてくるのである。厭世観はむしろまっとうな立場なのであり、子供たちがこの世に溶け込むために大人たちの手助けがなければならないが、子供らのみならず大人たちもまた、その助け役を強いられることによって幸福たり得る。


 このような視点に立てば、今回のことは私たちが子供の頃に受けた躾けの経験と同質であり、強いられて私たちが在るのは今回に限ったことではない。私は、コロナ以前も渦中も以後も、私たちは「意思して在る」ことのはるか以前から「強いられて在る」のだということを、今回のニュー・ノーマルにおいて、改めて突きつけられたような気がした。

そうであるなら、日常において「自らが何を強いられることで幸福たり得ているか」ということを考えてみてもよいだろう。なぜなら、自らに強いるものを最小化することが幸福に繋がるわけではないからだ。

ただ、他人に何かを強いられること自体はそれを避ければ事足りるが「存在自体が強いられて在る」ことを受け入れることは、意外と難しくもある。その理由は、それを受け入れることは「条件付きの私」を認めることであり、死を受け入れることに繋がることでもあるからだろう。私自身もそれを受け入れることは難しく感じられるが、「強いられて在る」ということは私とは無関係に、つまり絶対的な事実であると私自身は信じているので、私がどう抗ってもそのような枠組みの中で事は運ぶだろうと思っている。

その一方で、そのように考えることで不思議と心が安まることがある。何かに見守られているような気がしてくるのだ。大きな生命の流れの中に浸かっているようで、すでに自分は満たされていることを告げられているように思えることがある。


 子供の頃の話だが、友達が親に刃向かうときの殺し文句を教えてくれた。

「産んでくれと頼んだ覚えはない」

もちろん、その親もそのまた親も同様に頼んだ覚えなどないだろうし、生まれる前に産んでくれと頼んで生まれてきた子供などいるはずもない。誰でもが気がつけば生まれていたのだし、親に養育責任はあるが、出産前の胎児本人意思確認の責務など担わせようもない。(そんなことをしたら近いうちに人類は絶滅する?)  養育責任を怠る親に文句はつけられるが、誰もが出生のその時点で意志など持っていないのだから、出生それ自体に文句をつけることはできない。

にもかかわらず、この殺し文句を投げかけられた親がしばしば反論し難さを噛み締めながら沈黙するのは何故だろうか? そもそも、このような屁理屈に過ぎない文言が、何故、殺し文句たり得るのだろうか?我々は出生児にも意志があるのだから尊重しなくてはなどと考えるようになったのだろうか?

( 誤解を避けるため、私はここで、望まない妊娠出産を人工的に阻止することが法的に保障されていることに反対するものではないことを申し上げておく。)

子供は自由意志というものが、強いられた条件下で発動していることを知らない。いや今では大人にもわからなくなっているのではないか。授かりものだった出産が、意志による選択になってしまった現代においても、強いられた現実は横たわっているのであるが、ますますそれが見えにくくなってくるところに混乱が生じているように思える。

子供が生意気であるというより、大人が自信を無くしているように感じているのは私だけだろうか。「強いられて在る人間」というものを否定し、自由の拡大のためとはいえ、その代替として「意思して在る人間」を押し付けられた状態というものは、結局のところ「人間による人間の自己疎外」ということになりはしないだろうか。


 



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