自動的なわたし


揚げ物の油の跳ねる音と、

雨が降りはじめた音と、

区別がつかないときがある。

窓から聞こえてきたパラパラ降りはじめた雨音を聴いて、なぜか口の中が物寂しくなったりして串揚げを食べたくなる、といったことがある。

 私は自分の意思で何かを感じた記憶がないような気がする。なにか先立つものによって、自ずと感じさせられてきた。

個人個人の意識においては、自ら自由に振る舞っているかのように感じられる。でも、他人を観察すれば、人間は自動的に幸福になるし不幸にもなるし、歴史家の話を聴けば、人間は自動的に戦争に突入するように思える。

個人はコントロールされているように、集団はまるで意志を持っているかのように見える。いろいろ理屈をつけて争っても、なるようになってゆくようにみえる。そして誰のせいでもないような、、、。

これではすこし危険な感じがするので、あまり他人の言うことを聞き過ぎたり合わせたりせずに、自分のなかの自動性を信頼して身を任せてはどうだろう。

自動性は自律性に先行する。意識によって律するのではなく、自ら動くことによって自らを治める。心臓が自ら動いているように、個人の自動性は、自らの意識からコントロールされることや制御されることから免れ得る。精神の自律性は大事だが、頭で自らをコントロールするのは危ない。

個人の中にそのような視点を持てば、自由が得られるような気がするのだが、、、。

私は自動人間なのかも知れない。とゆーことは動物ってことか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?