具象と抽象について

「気持ちのよい春の朝、窓を開けると満開のツツジの花が見える。いや、そうではない。それが見えるわけではない。私に見えるものを記述するには、そう言うしかないけれども、それはひとつの叙述であり、文章であり事実である。私が知覚するのは、叙述でも、文章でも、事実でもなく、ただのひとつのイメージなのだが、これを理解できるようにするには、部分的にとはいえ、事実の言明に頼るしかない。この言明は抽象的である。しかし私に見えるものは具体的なものである。」パース

                                  

1,人間が言葉を必要とするその理由

言葉には具体的な表現と抽象的なそれがあるが、私たちが見たり聞いたりするものの具体性を言葉で表現する時、その表現された言葉は抽象である。私たちが「これは花だ」と口に出して言うときそれは眼に見える花そのものではない。見えるものはすべて具体的な像であるのだが、私たちはそれを言葉で表現することによって、謂わばその具体性を損なうのだ。

具体性を損なうことを犠牲にしても、私たちは見たものを言葉によって表現せざるを得ない。なぜ私たちは見たものを言葉によって表現せざるを得ないかといえば、見たものを言葉によって表現することで、それを理解し、新たな知識を蓄積することの必要性に迫られているからだ。

2,「イメージから言葉へ」と「イメージからイメージへ」

私たちに見えるものはすべて具体的なものである。それを言葉にしたものは抽象である。それでは見えるものを絵に描いたものはどうなのだろうか。見えるものを見えるとおりに描けば具体性を損なわずにそれを表現することができるのだろうか。

見えるものはひとつのイメージであるし、絵画もまた同じイメージと捉えてよいだろう。そうすると「イメージから言葉へ」ではなく「イメージからイメージへ」ということになるのだから何も損なうものはないように思えるが果たしてどうか。

「見えるイメージ」と「描かれたイメージ」との違いとはなんだろう。前者は人間の知覚であるが後者は物質である。前者は主体に帰属し、後者は対象として客観的である。見えるものは空間的だが絵は物質として平面である。見えるものは触れ得るが、そのような意味で絵の中にあるものに触れることはできないし、見えるものは刻々と変化するが絵は変化しない。つまり「イメージからイメージへ」ということにおいてもそれが抽象であることに変わりはないのである。

3,写真と現実

それでは写真はどうか。写真もまた現実からの抽象であることに変わりはないだろう。私たちは写真を見て現実と同じだと思う。写真がペラペラのプリントであってそんなものが見えるものと同じであるはずがないにも拘わらずである。写真は現実ではないが、現実によく似ていると私たちは思い込む。その思い込みはどこから生まれるのだろう。その根拠を、私たちの眼球と同じようにレンズを通した光が結ぶ像=イメージであるからといったことに求める人もいるだろうが、それは像が結ばれる条件の一致であって、写真と現実が似ていると思い込む具体的な要因ではない。

写真と現実が似ていると思うその要因は、写真画像内部のあらゆる部分的諸関係が、現実のそれと、よく対応するからであろう。私たちは幼少の頃から写真に親しみ、現実と写真を同一視している。

はじめて旅した外国の風景が、日本で見知っていた写真とそっくりであったという経験。事前に写真や動画による情報が脳内に蓄積され、実物を見れば即そのデータが呼び起こされる。このデータ照合がそっくりであるという感興を生むのであり、それはつまりは情報通りであるということを意味する。

それでは、いざお見合いの場に臨んでみると写真と違うと感じられた場合は情報通りではないということになるのだろうか?いやそうではないだろう。風景写真だろうがお見合い写真だろうが情報としては同等なのであるが、それを見る側の観点や目的によってその情報への評価が変わってしまうのだ。写真からいかに多くのものが抜け落ちているかということは、情報レベルでは問題にならないが、意味レベルでは決定的な問題になる。

写真は現実に似ているが、それは見る側の認識に依存しているのであって、その認識は、その人の想像や憶測や欲望や思い込みによって作り上げられた現実=意味内容としての現実、であることを人間は忘れてしまう。「同一視する」ということは「もともと違うものを同じと見なしても、この場合は差し支えない」ということが成立する条件というものが想定されていることによって可能になるのだ。

4,具象絵画と抽象絵画 (具象はわかるが抽象はわからない)

ところで、絵画の本質は抽象であるのだが、具象絵画、抽象絵画といったジャンルのようなものがある。これらは双方とも絵画表現である限り本質的に抽象であることに変わりはない。

それではなぜこのような二分法が存在するのか。それは「絵画作品内の登場物」と「絵画作品の内容」との混同から発生した不適切な分類法であると考えることができる。作品内の「登場物」はモチーフであり、その作品の主題等の構成物に過ぎない。つまり作品に帰属するものなのであり、それ以上の独立した存在ではないのである。

それに対して「内容」は作品に帰属するものではない。なぜなら「内容」が生ずるためには鑑賞者が必要とされるからである。「内容」はこの条件を満たさない限り生ずることはないし、作品から独立し得る存在であると言える。とすれば「内容」は作品に帰属するものではないだろう。であるからこそ、その「作品の内容」は各時代によって解釈し直され新たな「内容」が生み出されるのである。

「作品内の登場物はその作品に帰属するが、内容はその作品自体に帰属するものではない」ということを明確にすることで、具象抽象の二分法を克服できるだろう。


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