気分と味覚


昨夜は少し落ち込み気味だったので、気分を変えるためにAmazonプライムで映画を観ようと思った。選んだのは数年前に見逃した一本。私が大好きな監督デビッド・リンチの娘が撮ったLuckyという作品。実父のリンチが脇役で出演していることも楽しみだった。

こんな時、落ち込んでるからコメディを観るとか、へこんでるからサクセス・ストーリーがよいとかいうものではないということは言うまでもないことだが、それにしても自分の今の気分を見極めることは意外と難しく、どんなものが気分転換に繋がるのか選択することに迷ってしまう。

鑑賞中、自分の気分の変化をモニタリングしてみた。ある場面に引き込まれた瞬間、すでにそれまでの気分から脱していることが感じられた。変化するというよりは乗っ取られると言ったほうが良いかも知れない。そして観賞後の気分は確かに以前とは違っていて、何かしら満たされているような気分になっていた。

何かに引き込まれた時、気分が変化する。不思議なことは、気分が変化した後になってはそれ以前の気分に戻ることはできないし、それを思い出すことはできても味わうことはできないということだ。当たり前のことかも知れないが、思い出されることはやや落ち込んだ気分であったという事実の記憶であるが、その記憶にはその気分の質が欠落せざるを得ない。気分の質は今現在味わっているものがすべてである。

私を染め上げている情動的質は不可逆的に変化し続ける。今現在の気分しか味わうことはできない、と同時に、その気分が今の自分を支配しているのだと思うと、自分が操り人形のような存在に過ぎないような感じがしてくる。自分自身の中に在ると思しき心というものが自分を操っているような気がしてくるのだ。

そして、現実というものもその都度の現実でしかないと思えてくる。なぜなら、現実というものは必ず何かしらの気分を伴っているものであるから。さらに踏みこんで言えば、気分が現実を作り上げているのだと言ったとしても、必ずしも言い過ぎではないかも知れない。

気分が先か現実が先か、これは鶏と卵の比喩と同じようなものだからここでは考えないようにしよう。我々は現実の中に居るのではなく、現実を想像しているのだ。その想像されたものを味わう味覚が気分というものであると捉えれば、その味は食べている時にしか味わえないものであることは納得できる。先程まで食べていたものに代わって、今は違うものを味わっているわけだ。

食事の目的が栄養の摂取にあるということとは無関係に、食する行為自体は常に何かしらの気分を伴っている。気分が現実の味に相当するものであるのなら、食べたいものを食べるように、なりたい気分になればよいのだし、そのようにして醸成された気分に相応しい現実が立ち現れることだろう。



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