食べられちゃうよ!!


数年前、池袋サンシャイン水族館にての出来事。

食べられちゃうよ!!

小さな女の子が巨大な水槽に走り寄りながら叫んでいた。周囲に観客が十数人ほど居ただろうか。巨大な水槽の中では女性ダイバーが遊泳している。様々な魚類に混ざってサメが泳いでいた。

なんで食べられないの?

両親は笑いながら女の子を見下ろして何かしらその子に説明していた。大丈夫だよとか何とか言っていたと思うのだが、要するに現実にはそんなことは起こらないことを伝えていただろう。ここではふたつの現実観が対立していたのだった。

子供の現実と大人の現実。

集団社会では、現実はひとつでなければならないのだから、大人の現実が選ばれる。決まり事だ。

もしこのとき、本当にダイバーがサメに食べられたとしたら、子供の現実が正当な現実ということになるのかというと、おそらくそーはならないだろう。大人たちは、たまたまそーなったんだけど普通はそーならないんだよ、これは事故なんだと言うに決まってる。

この大人たちの現実って何だろう?これは集団で作り上げられた現実ではないだろうか。個人では負いきれないような巨大な現実を実現させるために、大人たちは他人の顔色を伺わざるを得ない。

現実には過去と未来が含まれていることを知っているのは大人だけじゃない。未来の予測に整合するような現実認識こそが正当な現実であるということを子供も想定しているのだが、より多くの権威者の同意を得た現実のほうが強いということも、子供はよく知っている。

もしその場にこの家族きりだったなら、この両親は少しだけ不安になったかも知れない。現実は約束事のようなものなのだから、その保証人の数が少なくなればたちまち自信が揺らいでくる。

約束事が変われば現実が変わる。しかし、この手の現実以外に個人的な現実というものもあるだろう。このふたつの現実の関係はどーなってるんだろう。ちなみにこのように書いている私の文章は個人的な現実観の元に書かれていることは言うまでもない。

コロナ禍の今、現実が分裂しつつあるように見えることは怖いことだが、一方、集団で作り上げた現実を唯一の現実であると思い込むことも同じく危険なことであることは、先の大戦をはじめ、さんざん学んできたことだろう。

過去を振り返りあの頃の現実と今のそれが違うことは理解できても、今現在の現実がどのような現実であるのかということを理解することはなかなか難しい。

現実がそこにあるわけではない。我々自身を含めたものとしての現実、そのような現実のみが、その都度立ち現れる。大人たちには、よほど慎重な現実選択が求められている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?