見出し画像

「おいしいごはんが食べられますように」 高瀬隼子

「わたしたちは助け合う能力をなくしていっていると思うんですよね。昔、多分持っていたものを、手放していっている。その方が生きやすいから。成長として。

誰かと食べるごはんがおいしいのも、そのひとつで。力強く生きていくために、みんなで食べるごはんがおいしいって感じる能力は、必要でない気がして」



「おいしいごはんが食べられますように」 高瀬隼子



ずっと「あたりまえ」だと思ってきた日常。


今まで過ごしてきた中で、信じて疑わない価値観。


自分の考えは間違っていないと妄信する脳。


そんな集積の上にできあがった自身の揺るぎない「あたりまえ」が、この本を読むと、ものの見事に壊されてしまいました。


この本を読んでまず思い浮かび上がったのが、いつも目にしている不文律。みんな「あたりまえ」だと思っているけど、よくよく考えたらちょっとおかしなこと。


なぜ、テレビの食レポは必ず「おいし~!!」と言うのか?  

口に合わなくても
そう言っているのか?


もしも、「まずい~!!」なんて言ったらどうなるのか?


そんなのわかりきっているし、みんなそんなもんだと思っているし、その方がみんな気持ちいいし。おいしそうに食べているのを見ると、幸せにな気持ちになるし。


では


「みんなで食べるごはんはおいしい」
と言うのは、みんなそう思っているのか?


この本の冒頭


食品のラベルを製作している会社の支店長が、部下たちにこう言います。

「そば食べたい」
「みんなで食いに行くぞ」


支店長の口癖は


「飯はみんなで食ったほうがうまい」

しかし

中には、お弁当を持ってきている人もいるし、かつて支店長に合わせて食べて、お腹をこわした人もいるのです。

そんな社員たちが、支店長の価値観の押しつけに困惑しているのかと思いきや、食事から帰ってくるなり

「そばめちゃおいしかったよぉ、支店長がおごってくれたの、全員分!」


とか

「やっぱりみんなで食べるごはんが一番おいしいですよね」


とか、その日居残った社員に言うのです。


社員たちは本当にそう思っているのか、いないのか?


職場の空気を良くしようとしても、上司に忖度しようとしても、人間の表面と深層の乖離が大きくなるにつれて、その職場の空気は「澱んでいくんじゃないか?」


冒頭を読んでいると、そのような今まで深く考えていなかった、あたりまえや暗黙の了解がしだいに「違和感」に変わっていったのです。


そして


高瀬隼子さんの核心を突く繊細な筆致により「おかしなこと」がどんどん浮かび上がってきました。


この物語の登場人物は主にこの3人です。


二谷(男性) 


仕事をそつなくうまくこなし、同じように人間関係もうまく状況に則してそつなくこなしていく。

同僚の芦川とつきあっているが、同じく同僚の押尾とも隠れて関係を持っている。食にまったく興味がなく、「生きるために食べる」という価値観であり、三食ともカップラーメンでもいいと考えている。


芦川(女性)
 


仕事の能力は一般的に見て ロークオリティであり、研修やシンポジウムなど苦手な仕事はドタキャンする。


体調不良を訴えてよく早退する。


結果、仕事が後輩の押尾や二谷に押しつけられることがよくある。


以前に彼女はパワハラにあったことがあり、支店の管理職は気を遣って、配慮が他の社員より手厚い。


自分の仕事の能力に対するハンデを感じているらしく、それを「手作りのお菓子」や「笑顔」や「気配り」で他の社員の気持ちや職場の空気ををよくしようとしている。


二谷の考えとは反対に、執拗に手料理にこだわっている。デートのとき、二谷の家で手料理をふるまうのだが、二谷はそれをよく思っていない。むしろ、疎んじている。


押尾(女性) 


芦川の1年後輩。ですが、仕事の能力はすでに芦川をはるかに超えている。


芦川が体調不良を訴えてよく早退するので、仕事の尻拭いをさせられることがある。


自身も偏頭痛持ちであるが、薬を飲んだり我慢して仕事をしているゆえ、芦川の空気を読めない勝手な感覚に苛立ちを覚えている。


二谷には好意を抱いているようであり、芦川に内緒で二谷とよく食べに行ったり、飲みに行ったりしている。



3人の他にも、パートの原田さんや支店長補佐の藤さんという、好感を持てない人物が同じ職場のフロア内にいます。


押尾さんは、研修のあと二谷と居酒屋に入って「芦川さんのこと苦手なんですよね」と二谷に言います。また、芦川さんができないことを周りが理解していることも含めて「苦手なんだ」と押尾さんは二谷に言うのです。


そして

「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」


とまで押尾さんは言います。

「いいね」


と二谷も言います。


終始、胃もたれするようなスッキリしない感じで、「あと味」はよくありませんでした。


が、恐るべきや


余韻が半端ないのです。読後ずっと3人のことを考えてしまうのです。


それにつられて、もういちどこの本を読んでいくと、しだいに感じ方が変わってきました。


読者はこの本を読み終わったあと、登場人物の誰かに共感したとか、誰かに共感しないとか、そんな感想をお持ちになると思います。


僕が共感したのは「強いて言えば押尾さんかなぁ?」と考えていました。自分自身も少しの体調不良では仕事を休まないですし、休めば他の方に多少なりとも迷惑をかけることになるので、がんばって出勤するからです。


でも


芦川さんは、休みや早退に関して「体調不良のシールド」を使い、あざとさを感じますが、別にルール違反をしているわけではないんですよね。与えられた権利の中でそれを行使しているだけです。


もちろん仕事に穴があいた分、誰かがそれをしなければ、仕事はうまく回りません。押尾さんに共感するのはその側に立っているからだと思うのです。


読んでいくにつれて、芦川さんは自分がこの職場で「どうすれば自分自身を守れるのか」だけを考えて行動したのではないか?と思いが変わってきたのです。


芦川さんは、パワハラを受けた過去があります。自分自身が今どういう状況なのか読めない。自分自身がわからない。だから、かわいくて、家庭的で、いつも笑顔で、そうすることで自分を取り囲む環境の中において、なんとかやり過ごしてきた。自分を守ってきた。そうやって彼女自身が出来上がってきた。そのためには恣意的でもある。そんな個性として芦川さんが描かれているように思えてきたんです。


周りから承認を得られると感じられるのが、芦川さんにとっては〝食〟しかなかったのかもしれないと。


職場のみんなが喜んでくれているとわかると、芦川さんの「手作りお菓子」作りはさらに熱を帯びてきます。


頭痛で早退したのに「薬を飲んで治ったから、お詫びにお菓子を作ってきました」といった言動や、ホールケーキを作ってきたときは人数分が全然足りない状況や、その他の描写でも、なんか状況認知ができていないように思えるんですよね。


それに全員がお菓子やケーキを歓迎していないような空気もあって……それも芦川さんはわかっていない。


この本は二谷を中心にした3人称の語りと、押尾さんの1人称の語りが交互に語られています。


はじめ、そのことに違和感がありました。なぜ芦川さんの視点がないのだろうか?


もう一度読んだとき、そもそも芦川さん自身が自分自身をよくわかっていないので、語れないのではないか?語らせることができない人物なのではないか?


そのときに「ケーキを切れない非行少年たち」という本が頭を過(よぎ)ったんです。


生きづらさを抱えている人が、社会にはたくさんいます。


そのことに気づいていなくて、なんとかそれをかわしながら生きている人もいます。


また、そのことを理解できる人や社会が成熟していない。特に社会全体や会社側、企業側の認知が実際の働く現場と乖離しているのではないのか?


2度目に読んだとき、そんなことを考えていました。


二谷も真実(ほんとう)の自分を見失っている。空気感に合わせてうまくやっているだけで、自分がない。(だから3人称の視点なのか?)


ほんとうは自分にも進みたい道があったのに「好きなことより、うまくやれそうな人生を選んだ」。


そのような選択に二谷はペシミスティックになっている。二谷は病んでいる。生命の基になる〝食〟に価値を見出す芦川さんを嫌悪したり、守られた弱い立場にいる芦川さんに惹かれたりしている。


最後に、そんな病んだような衝動を押尾と二谷は行動としてとります。(いや、二人だけではないのかもしれない?)


このシーンを読むと、日常が普通に回っているように見える職場でも、一枚皮を剥いでみると、蠢くような悪意がとぐろを巻いているように思えてきます。


「わたしたちは助け合う能力をなくしていっていると思うんですよね。昔、多分持っていたものを、手放していっている。その方が生きやすいから。成長として。

誰かと食べるごはんがおいしいのも、そのひとつで。力強く生きていくために、みんなで食べるごはんがおいしいって感じる能力は、必要でない気がして」


と押尾さんは、二谷にそう言いました。


二谷、芦川、押尾、3人の誰にも共感できませんでしたが、それぞれの人物の厭な成分の一部が、僕の中にもたしかに〝ある〟と感知させられました。


私たちを取り囲むさまざまな闇があぶりだされ、考えさせられた芥川賞受賞作でした。


みんな「おいしいごはんが食べられますように」



第百六十回芥川賞受賞作



【出典】

「おいしいごはんが食べられますように」 高瀬隼子 講談社


この記事が参加している募集

推薦図書

読書感想文

いつも読んでいただきまして、ありがとうございます。それだけで十分ありがたいです。