「ニムロッド」 上田岳弘
「ところで今の僕たちは駄目な人間なんだろうか?いつか駄目じゃなくなるんだろうか?」
「ニムロッド」 上田岳弘
「仮想通貨小説」 として話題となった
第160回芥川賞受賞作、「ニムロッド」
僕は仮想通貨のことはよくわからなかったし、ビットコインも名前だけ知っている程度。
この物語を読んでも、やはり仮想通貨をよく理解できなかったのですが、話に引き込まれて夢中になって読みました。
「人間というものが何なのか?」という問いかけが、胸の中で得体の知れない微動を起こし、価値というものが確固たるようなものに見えて、意外に脆く幻想的なもので、その微動とシンクロし、人間として、価値として、「完全」というものは存在しないのではないか?「完全」じゃないから人間なんじゃないか?そんな答えともおぼつかないふわふわとした思いが浮かんできました。
また
現在のAIや高度生殖医療によって、のちに人間としての営為が失われ、完全な人間がこれから存在できるようになるとする過程で、今生きている人間の心には虚無感が生まれ、我々は乾いた現実の中で彷徨っているのではないのか?という思いも同時に。
ところで今の僕たちは駄目な人間なんだろうか?いつか駄目じゃなくなるんだろうか?
中本哲史(ナカモト・サトシ)は、 サーバー保守会社に務める38歳 。
偶然にも仮想通貨・ビットコインの創設者「サトシ・ナカモト」 と同じ名前。
それが理由かどうかはわかりませんが、社長から使っていない余剰サーバーでビットコインを採掘(取引履歴の記載)することを命ぜられるのです。 それによってひと月に30万円ほど稼ぎを生み出します。
通貨の価値を保証するのは、ドルや円などの通常の通貨であれば中央銀行であり、あるいはその上位に位置する国家なのだけど、ビットコインなどの仮想通貨の場合は、プログラム化されたルールに参加するPCがそれに当たる。
(中略)
例えるならば、飲食店を選ぶ際に、有名なグルメレポーターによる採点を信用するか、あるいは匿名の人々の投稿に採点ルールを適用したものを信じるかの違いのようなもの。全然違うかもしれないけれど、とりあえずはそんな風に把握している。
なんとなくそのような例に、わかったような、わからないような、要するに人々がその採点を認め、そのグルメを求めて行列が出来るのならば、そこに価値というものが生まれるのだということ。
ビットコインも、その存在を保証する取引台帳があるだけなんですね。誰がいくら保有しているかが書かれているのですが、そこに人が「存在する」と合意すれば、ビットコインは確かにそこに「存在する」ということになり、価値が生まれるのです。
ビットコインは、台帳へのデータの追記をアルゴリズムに参加したPCの計算力を借りて行う。無償ではない。
計算したPCには、その報酬として新たに発行したビットコインが贈られる。台帳によって存在が保証されるビットコインの、その存在そのものを担保することに力を貸すことで報酬が支払われ、そのことがまた参加者にビットコインの価値を感じさせるのだ。
中本はその採掘(マイニング=取引履歴の記載)をする新規事業の課長となったのです。
中本の先輩・荷室仁は、鬱病になったことがきっかけで、実家のある名古屋に転勤になりました。
荷室は作家を目指していて、新人賞の最終選考に3回残ったが落選。しばらく中本に連絡はなかったのですが、〝駄目な飛行機コレクション〟 というメールがニムロッド(荷室の通称)として、いつしか中本に送られてくるようになりました。
・原子炉を搭載した飛行機(墜落したら大量破壊兵器となる)
・カモメ型飛行機(カモメ研究をして造った飛行機、初飛行で墜落。)
・垂直浮上する飛行機(安定感がない。バランスが悪い。)
・パイロットが生還できないように設計された飛行機(自爆飛行機)
など。
これは、飛べるようになる飛行機が完成されるまでに数々の失敗作の飛行機があり、それをニムロッドが解説し、中本に問いかけるという内容のメールなのです。
ねえ、中本さん、僕は思うんだけど、駄目な飛行機があったからこそ、駄目じゃない飛行機が今あるんだよね。
でも、もし、駄目な飛行機が造られるまでもなく、駄目じゃない飛行機が造られたとしたら、彼らは必要なかったということになるのかな?
ところで今の僕たちは駄目な人間なんだろうか?いつか駄目じゃなくなるんだろうか?
人間全体として駄目じゃなくなったとしたら、それまでの人間たちが駄目だったということになるんだろうか?
でも駄目じゃない。完全な人間ってなんだろう?
荷室は中本のある体質に、興味を持ちます。
中本はとくに悲しくなくても、感情が昂らなくても左目から定期的に涙が流れるのです。
中本自身にもわからない。
この左目から流れる、感情を伴わない涙は何を意味するんだろう?
中本の恋人、田久保紀子にニムロッドの話をすると、とても興味を示しました。
外資系証券会社に勤めるエリート・田久保紀子はかつて結婚していて、夫との間に子供を授かりましたが、出世以前診断を受けたときに染色体異常がわかり、堕胎したのです。
中本に彼女は言います。
「もうのれないような気がするだけ」
「のれないって、何に?」
「人間の営み、みたいなもの?」
「正直言って何のために稼いでいるのか、全然わかんない。なんだか自分の人生じゃないみたい」
東方洋上に去る
「これはなに?」
「遺書」
「遺書?」
田久保紀子は自分のiPhone SEを取り上げ、青白く光る画面に顔を近づけて、読み上げるように続けた。
「そう。一人の男が、この遺書を残して飛行機に乗った。」
ニムロッドも田久保紀子も、共通して虚無感を抱えています。
ニムロッドは小説が落選してから 、誰にも読まれない小説を書いています。ただ、中本だけにはメールで小説を送るのです。
この「ニムロッド」という小説の中に荷室が書く「ニムロッド」という小説が挿入されています。
作中小説の中の「ニムロッド」は、 ビットコインの資産で塔を建てるのです。何よりも高い塔。「僕に買えないものは、この世に存在しない」と言って。
僕はニムロッド、人間の王。
・・・だと言って。
ニムロッドは塔の最上階で駄目な飛行機を購入し、コレクションしてゆきます。
そして、コレクションは増えますが、ついに駄目な飛行機は無くなってしまいます。
最後の商人、ソレルド・ヤッキ・ボーは言う。
「君に駄目な飛行機を売り尽くすことで、最後の商人である僕の願いは叶った。欲望がなくなってしまった僕はもう人間を続けてはいられなそうだが、ニムロッド、君はどうなんだ?
何よりも高い塔が建ち、その屋上に駄目な飛行機が揃った。
君の願いももう完膚なきまでに叶ったのではないか?
それでも君はまだ、人間でい続けることができるのかな?」
人間だから、欲望を持ちます。ニムロッドはもう無くなったとわかっていても、駄目な飛行機をもっと所有したい。
ニムロッドは駄目な飛行機のコレクションを前にして、大量の涙が右目から流れます。まるでニムロッドの代わりに、その駄目な飛行機が感情的に泣いているみたいに。
そして
駄目な飛行機を集めきったニムロッドは、もう何をしていいのかわからなくなり、東の空に昇り始めた太陽に向かって、駄目な飛行機で飛び立ったのでした。
帰りの燃料を積むことができないこの駄目な飛行機ならば、あの太陽まで辿り着くことができるだろうか?
田久保紀子からLINEメッセージが届きます。
疲れたので東方洋上に去ります。
ニムロッドも田久保紀子も、虚無感のさらに向こうの東方洋上へと去ったのだろうか?
それとも虚無感を燃料にし、「衝動」を持って飛翔したのだろうか?
僕はこのニムロッドの言葉を読んでいて、両目から感情が溢れました。
ねえ、ナカモトさん、僕は何よりも高い塔から飛び立ったわけだけど、もともと僕にとっての塔はさ、小説なんだと思っていたんだ。
(中略)
僕が言葉を紡いでいくことで、人々の精神に何かを書き込む。遺伝子に誰かが書いたコードみたいに、ビットコインのソースコードみたいに、僕が誰かの心に文字を通じて何かを記載することで、それが世界を支える力になる。そう思っていた。
でもそうではなかった。いや、あるいは僕に才能がなかっただけかな。だとしてもさ、ねえ、ナカモトさん、そんな衝動を持っているのは、きっと僕だけじゃない。それは、誰もが心の奥底に抱えている根源的な衝動に違いない。そんな衝動がきっと空っぽな世界を支えているんだ。
この「衝動」を持っているのは、駄目な人間だろうか?
駄目じゃない人間だろうか?
人間とは駄目だから、完全じゃないから、人間なんじゃないのだろうか?
僕はこの「衝動」こそが、人間なんだと思いました。
この物語を読んで、僕の「衝動」はこの空っぽの世界から離陸しようとしています。太陽を目指そうとしています。僕の中にある、「過去の駄目な飛行機」に乗って。
第160回芥川賞受賞
【出典】
「ニムロッド」 上田岳弘 講談社
いつも読んでいただきまして、ありがとうございます。それだけで十分ありがたいです。