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「旅する本」 角田光代

「かわっているのは本ではなくて、私自身なのだと。」


「旅する本」 角田光代 「さがしもの」より



本に意志があるのだろうか? 
いや、読み手の魂が本に宿ったのだろうか?


不思議なようで真実でもある物語。


         ◇


18歳の私は、古本屋に紙袋二つほどの本を売りに行きました。


古本屋の主人は、眼鏡をずりあげ、ずりあげ、そろばんをはじきます。


そのとき


ある本のところで、主人の手がとまりました。


「あんたこれ売っちゃうの?」


と主人は訊きます。


どういうことなんだろう?


亡き作家の初版本でもなければ、絶版になった本でもない。普通の翻訳小説なのに。


私は主人に「この本に価値があるのか?」と訊きました。


「あんたね、価値があるかどうかなんてのは、人に訊くことじゃないよ。自分で決めることだろう」


私は、「本を売りにきたのになんで説教されないといけないのか!」とムッとしましたが結局、その本を売ることにしました。


ついた値は「そんなに安いのか!」と驚くほどでした。


それ以来、その翻訳小説のことはきれいさっぱり忘れていました。


         ◇


その本に再び出合ったのは、大学の卒業旅行として、女のひとり旅でネパールに行ったときでした。


雨が降り、暇をもてあました私は、宿の近くの古本屋に行きました。


古本屋というのはどこの国でも何か似ているものなのだろうかと私は思った。ひっそりと音を吸いこむ本。古びた紙のにおい。本を通過していった無数の人の、ひそやかな息づかい。

(中略)

ふと見慣れた文字が目の端をとらえ私は立ち止まった。


そう


「私があの古本屋で売った本だ」と一瞬にして思い出しました。


何が「売っていいの?」だ。どこにでもある本じゃないか。それもネパールにも同じ本が売っているではないか。


そう思いながら本を抜き出し、ぱらぱらとめくると、いつのまにか笑いは消えました。


それは


あの古本屋で私が売った本そのものだったのです。


本の一番最後のページ、物語が終わって奥付があり、めくるとほかの本の宣伝があり、そのあとに空白のページがある。

空白のページに、Kの文字とちいさな花の絵が書いてある。シャープペンシルで引っ掻くように書いてある。


その本の絵を見ると、高校生のときに自分のイニシャルと絵を描いたのを思い出しました。


「どうしてここにあるのだろう?」


「わざわざ日本人の旅行者が
 持ってきたのだろうか?」


「この本を買うべきだろうか?
 ここに戻しておくべきだろうか?


いろいろ考えましたが、私は結局この本を買いました。お茶屋で甘いミルクティーを飲みながら、本を読みはじめました。


ストーリーは忘れていたというより、思い違いをしていたことが多かったことに気づきました。


主人公の友達の妹だと思っていた女性は彼の恋人だったし、彼らはホテルを泊まり歩いているとなぜか思いこんでいたが、実際は、安いアパートを借りて住んでいた。

しかも、おだやかな日常を綴った青春系の本だという印象を持っていたが、そうではなく、途中からいきなりミステリの様相をおびはじめ、緊迫した場面がいくつも続く。


その本をカトマンズでもう一度売りました。


そして


三度目に私がその本にあったのは、アイルランドの学生街にある古本屋だった。


そんな偶然が続くのか?
いや、そんなことはない。


私はゆっくりと、奥付をめくり、宣伝をめくり、そしてそこに見つけてしまう。もうかすれたイニシャルと、花の絵を。


私はまたもその本を買い、パブで読みはじめました。


本はまたもや意味をかえているように思えた。ミステリのように記憶していたが、そうではなく、日々の断片をつづった静かで平坦な物語だった。

若い作者のどこか投げやりな言葉で書かれた物語のように記憶していたが、単語のひとつひとつが慎重に選び抜かれ、文章にはぎりぎりまでそぎ落された簡潔なうつくしさがあり、物語を読まずとも、言葉を目で追うだけでしっとりと心地よい気分になれた。


そうして気づくのです。


かわっているのは本ではなくて、私自身なのだと。


        ◇


何度も読みたい本があります。
何度も読んでしまう本があります。


僕もかつて一度手放した本を、古本屋で買ったことがありました。


本は人と同じで、縁があるのだと思います。


読んだその時の年齢や状況で、「こんなことが書いてあったのか!」と驚くことがあります。


本屋や図書館で何度も気になったり、目に留まったりする本があったら、それはあなたと縁がある本なのでしょう。


その本の中にどんな自分を見つけるのか。


それが


縁ある本を何度も読む醍醐味なのでしょう。



【出典】

「旅する本」 角田光代 「さがしもの」より 新潮文庫


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