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私はただエゴを押し付けるだけしかできない

死にたい人を生かすことは不幸でしかない
生かしたいと思う人は幸せかもしれない

どちらもエゴ
どちらかの都合でしかない

そこに正しさも正義もない
あるのはそれぞれの都合だけ

勝ち負けの世界だからどちらかが負ける
どちらかの都合が優先される

私たちは幸せになるために生まれた
どこかで聞いたような言葉

誰もが不幸になる引き分けの選択をしないのか?

死にたくても死ねない不幸
生きてほしくても失う不幸

正しさも正義もないけど
そもそも正しさも正義もただの自己都合し

だったら
みんながその自己都合をあきらめ
幸せをあきらめ
不幸を分散し分かち合う

それならバランスも取れるだろう

成長・勝ち負け・競争・幸せetc
バランスの取れたボーダーから
より上に行きたいと思うが人ってもの

死にたくても死なせてもらえない
社会の都合上そうだから

さて、本題だが
私は私のエゴから猫の命を弄ぶことにする

昨年から近所でよく見かけるノラ猫がいる
かわいいのだ

私の住んでいるアパートは、雨樋から雨水が
流れると道路に土がこんもりたまる場所がある

そこが猫のトイレの場所となる
誰もそのうんちを取ったりせず放置している

だから私はジモティーで子供用のスコップを
もらい、私は猫ちゃんのうんちを捨てていた

そんなときに出会ったのがくだんの猫

最初は逃げていたが鰹節を上げると
2~3メートルくらいまで近づいても逃げない

でもそれでも警戒心は強い

そろそろ発情期だからもし仲良くなったら
不妊治療をして地域ネコにできないものかと考えている

個人的には不妊治療はあまりしたくないが
私のエゴがこの猫ちゃんに生きてほしいと言っている

理由はかわいいからだ

私の自己都合でしかない
そして「かわいくあれ」という無責任な期待が私にある

もし、このネコがゴキブリやネズミを捕まえ
食べている姿を見れば当然であるかのように

嫌悪し
忌み嫌い
怒り狂うだろう

エゴとはそういうものだ

それをわかった上で地域猫として生きられないかと
鰹節をあげ、うんちを片付け、空き地の小便臭の
処理をして、できれば不妊治療をしたい

それでも近所の同意が得られなければ
私の手で自ら保健所に連れていき死なせてやる

これは人間社会という都合上、そこにネコが
暮らす以上、より力の強い共同体の人間社会の
ルールにほかの生命は従わせる必要があるから

そもそも私の動機がエゴそのもの
かわいいから助けたい

裏を返せばかわいくなければ助けたくない
当然だ

ゴキブリやネズミが出れば目障りだから殺す
それくらいどうしようもないほどのエゴ

その私の自己都合のために人間社会の自己都合を
批判するつもりは毛頭ない


過去に私は3回自殺に失敗して今こうして生きている
生きてほしいと言う人もちらほらいるが

正直、ずっと死んでいるより最低な日々が
続いている

だけど、自分の不幸を受け入れ、他者のエゴに
従い、相手を勝たせる生き方を選んだ

学校に行けば理不尽にその尊厳や存在自体を
ぶち殺され、死ぬ以上の苦しみも経験した

まぁ死んだことないので知らんが


発達障害と修学旅行


「死にたい」という私の希望(エゴ)はもう諦めた
だから私に懐きそうなこのノラネコちゃんに私のエゴを押し付ける

可能であれば、その不幸をノラネコちゃんやご近所さん
と共有し、不幸を分散することでバランスを取れれば・・・

幸せを諦めれば、納得感は得られるのではなかろうか?




こちらは同じ区内の別の地域のネコ
耳をカットしている不妊治療ずみのネコが多いが全部ではない

エサを与えられているが、強制的に手術を受けさせられ
子供を産めなくさせられている不幸

私たちは幸せになるために生まれた

そうだろうか?
幸せになるためには犠牲が必要だ

競争なのだから

私は競争をやめ不幸を分散することで得られる
バランスや納得感を優先したい

たとえば「かわいいからたすけたい」けど
命に対して責任を持ってしまった以上
自らの手で殺すとか
逆に「かわいくないけど」
彼にも生きる権利はあるだろうと助けてあげるとかね

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