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『海のまちに暮らす』 その2 19歳と東京と生活の記憶



 真鶴に来て、東京のことをより多く考えるようになった。不思議なことに東京で暮らすあいだはほとんど東京のことを考えなかった。東京がどんな町であるかということの前に、自分はもう東京という場所に含まれていて不可分で、忙しくやらなければならないことや出来事が数多くあった。自分が今どのような町に住んでいるのかという問題はあまり重要でないように思えたし、誰もそんなことを訊ねなかった。それよりも誰とどんなことをしたか、その時何を言っていたかという瞬間的な情報が鮮やかな価値を持っていたような気がする。これは自分が大学へ通っていて、自分と同じ年齢の学生と多くの関係を持っていたことも大きいが、その頃はまだあまり東京の地形や生活史に興味がなかったのかもしれない。

 だがこうして住まいを移り、進学を一時停止したまま見知らぬ町にやってきてみると、かつて自分の暮らしていた時間と場所が組み合わさって保たれていた風景や感覚が、新しい発見として遅れて立ち上がってくるような気分になる。それは静かに自分の心の中で起きていて、常に後追いの姿勢を取らされることになるのだが、その時はじめて僕は考える。過ぎ去った生活のことや、それがどのような町であったかということを。

 以前暮らしていたのは東京都豊島区、西武沿線の下町に面した賃貸アパートだった。その小さな部屋は月々六万五千円で雨風を凌ぐことができて、西側の窓へ差し込む光で洗濯物を乾すことができて、夜中に三階の外廊下へ出ると、繁華街のビル群の灯が都会的な明滅を繰り返しているのがみえた。歩道の広い山手通りが目鼻の先に横たわり、新宿方面へランニングするのにちょうどよかった。近くには立教大学があった。そのあたりの場所が、まず僕にとって最も生活的な東京だった。そしてさらに時は遡り、そのアパートに住む前のいくつかの記憶を思い出す。


 そもそも、十九歳としての一年を僕は東京で浪人生として過ごした。

 志望していた美術大学の入学者選抜は実技試験に重きが置かれたもので、デッサンや着彩をはじめとする技術的な訓練が必要とされた。そのようなアカデミズムに応えるべく都内にはいくつかの大規模な美術予備校が存在し、そこでは大勢の受験生が日夜、試験環境を模したカリキュラムをこなしているのだった。そのうちの一つが豊島区にあった。毎朝、平たいカルトンケースを抱えて湘南新宿ラインに乗り込むと、電車は飛ぶように多摩川を越えて池袋に停まった。当時はまだ都内に下宿しておらず、実家のあった神奈川の戸塚から往復三時間ほどかけて池袋まで通っていた。

 予備校にはさまざまな学生がいた。九州や関西、関東以北の町から来て、もう何年も東京にとどまりながら浪人生を続けている者もいた。何人かは授業が終わると早々と夜の入り口に消えていった。生活費を工面するために週四日のアルバイトをしているのだと、後で誰かが言っていた。

 年間の学費は高額で、家の経済事情を鑑みてもそうやすやすと支払えるようなものではなかったから奨学生の試験を受けた。これまでに描いたデッサンを持っていって面接をするのだ。結局いくらか受講料を減免してもらえることになったが、それを差し引いてもまとまった額のお金が必要で、延納届を出してなんとか期日に間に合わせていた。

 浪人生の日常はひとえに単純な繰り返しのもとに行われる。午前九時のチャイムが鳴ると、学生は各々のイーゼルの前に座って画面に鉛筆でアタリをとりはじめる。腕をまっすぐ水平に伸ばし、柔らかな芯先で撫でるように画用紙に触れる。微かなその摩擦音は無数の場所から一斉に寄り合わさり、遠い海鳴りとも地響きとも似つかないざわめきとなってアトリエを揺らす。

 時々講師がやってきて、学生の背後を通り過ぎながら室内を巡回する。彼らは先の細い長い棒のようなものを持っていて、これは天気予報の指示棒の要領で画面の一部を指し示すことができるのだった。

 昼時になると食事を摂ることができたが、制作時間が足りずにそのまま無心に描き続ける者もいた。友人たちは煙草を吸いに外へ出ていった。僕は椅子へ座ったまま、朝方セブンイレブンで買った細長いパンやチョコレートなどを食べた。集中して画面に向かっていると、自分が空腹なのかそうでないのかわからなくなることがある。しかし何も食べないと今度は頭がぼんやりとしてくるので、肝心の集中が続かなくなる。それを回避するために何か口にしようという思いだった。昼食には時折母がおにぎりを持たせてくれることもあった。

 翌年の春に大学へ進学し、一年次から上野校地に通うことになった。大学の志望動機は茫漠としていて、とにかく自分にとって好きで執着のある手仕事を継続させつつ、この世の中で生き延びる方法と環境を求めていた。国立のため私学と比べて学費がかからないことも理由の一つに数えられる。合格の知らせを受けて間もなく、それまで自分が在籍していた予備校で学生講師のアルバイトをやらないかという話を受けて翌月から早々に働くことになった。そしてすぐに住む場所を探し始めた。

 予備校への出勤は週に三日か四日、校舎は池袋駅か目白駅から歩いて通える場所にある。三月下旬ともなると、新生活の拠点を求める人々による物件探しは既に終盤に差し掛かり、学生が一人で住むのにちょうど良い賃貸はあまり残っていないようだった。

 結局みつけたのは池袋から一駅隣の住宅地に位置するこじんまりとした賃貸アパートで、細い階段を三階まで上がると、遠くに池袋サンシャインシティのビル群がみえた。六畳一間の内装は古くも新しくもなく、部屋の奥から西日が強く差し込んでいた。ベランダは付いておらず、窓を開けると西武沿線を通り囲んで連なるトタン屋根と薄ピンク色の空がみえた。

 玄関のそばには潜水室のようなクリーム色のユニットバス、そのドアの向かいにキッチンらしきスペースがあり、一口のIHクッキングヒーターと銀色のシンクが身を寄せ合って並んでいた。洗濯機も一応ここに置けますが、と不動産仲介スタッフが右隣を指差すのを、窓を開けたままぼんやりと聴いていた。


 そのような町で、大学に入学してから三年間を過ごした。特段美しいわけでもなく、明らかな高揚があるわけでもなかった。けれどそこで繰り返される生活に不満を感じていたわけではなかった。近所のスーパーマーケットは夜中三時まで開いていて、二〇分あれば池袋まで歩いていけた。ひとまずは毎月のアルバイトの収入と奨学金を足して生活費にし、毎日二食、あるいは三食の炊事をしていた。

 翌年の一月には新型コロナウイルスが国内で確認され、あっという間に分布を広げていく様子をスマートフォンの画面越しにみていた。ほどなくして大学運営のほぼすべてが停滞したため、MacBookと iPad、使い古したコンデジと最低限の衣服だけを持ち一時的に実家のある鎌倉へ戻った。あちこちのメディアを遡りながら情報を眺めているうちに、しばらく東京には戻れないだろう、という漠然とした結論めいたものが自分の中に定着した。東京に戻れないということが自分にとって何を意味するのか、それまであまり考えたことがなかった。東京にはある通うべき大学、東京にある労働先、東京にある会うべき人──。そのようなカードは裏返され、時間だけが几帳面に過ぎていった。

 一方で自身の日常における制作活動について言及すれば、それらの事態はそれほど大きな影響を及ぼさなかった。毎朝決まった時間に起床し、日中は人気のない山道を歩き、部屋に戻って絵や文章をのこすことをただ静かに続けた。学生において主要な何かが生活から抜き取られた空白感こそあれ、当時からテキストを主体としていた自身のライフワークは損なわれることなく、書くべきことは尽きなかった。そのように決められた歯車を小さく確実に回し続けていくことだけが、日常を継続させる最初の動機であり、運動であり、現実の下敷きにならないための抵抗であるとわかるのは、東京へ戻った後のことになる。

 今、生活とは何なのか。
 大学が再開されてからもしばらくそのことを考えていた。それからさらに一年が経った二〇二二年の冬、それまで下宿をしていた都内のアパートを引き払った。


つづく

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