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冬が旬のきもちたち




 _途方もなく飽き性なので、今やっていることを脇に放り投げて新たな何かを始めてしまうことが多い。このあいだ家に置いてあるDSを久しぶりにやりたくなってソファへ座り、電源を入れるところまではよかったものの、メニュー選択を経てローディングの暗転画面に入るや否や先ほどまでの期待感はたちまち霧散、〈自分は果たして本当にそのゲームを今やりたかったのか〉という早急な問いの導かれるまま、すぐさま電源を落としてしまうことがあった。

 _最近はめっきり新しいゲームを買わなくなったが、今でも部屋には2000年代初期を代表する対戦・育成・RPGなどのゲームソフトがしまってある。時々それらを引っ張り出して遊んだりもするのだが、それはそのゲーム自体を十全に楽しんでいるというよりはもう少し別の──かつてそのゲーム機を取り巻いていた現実のほうの──風景や感情に没入していると言ったほうがいいのかもしれない。例えば風の吹きしく曇り空の2月の午後にろくに重ね着もせず猫の額ほどの公園のベンチに座ってディスプレイを覗き込んでいた時の、ささくれだった座面をはみ出す尻の痛みが次第に鈍くなっていくあの感じや、朝8時のリビングへ投げかけられるニュース番組のくっきりとした見出し文字と慇懃なキャスターの顔つきの、なんだかよくわからない、取り返しのつかない時代を貫くあの感じだ。

 _そういうかつて実世界を流れていた無数のシーンが絶え間なく駆け寄ってきては遠ざかる。ゲームというのが自分にとって〈時間呼び起こし装置〉になりつつあるのだ。そういう装置はますます日々に増え続けていて、これが年を重ねるということなのか。それともこの感情も長い目で見れば一時の、取るに足らない心配なのか。時代が、歳が、運命が先へ進めば進むほど、経験した時間の事実が変容していく。その圧倒的な不確かさに戸惑いつつ、自分はそれをなるべく長く控えめに楽しんでいようと思うのだけれど、皆さんはどうですか? 冬の街からお送りします。




小雑誌{日日の灯}
第4号(2024.01.29発行)に掲載

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