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【映画スラムダンクを観た】出版社のすみっこにいながら漫画原作の実写映像化について思うこと

ついに観てきました、映画『THE FIRST SLAM DUNK』・・・・! 今日はこの作品をきっかけに、漫画作品の実写映像化について書きたいと思います。

なぜこれまで観なかったのか

え、公開から5ヶ月後って、遅くない・・・・? ええ、遅いですよね・・・・でもリアルタイムで漫画『SLAM DUNK』を読んでいたとき、じつはそれほどハマらなかったんです。

そう、私はリアタイ読者。ざっくり見積もって30年、出版社に勤め、編集の世界に住んでいます。だから、『少年ジャンプ』で連載が始まった頃は会社に入るか入ったかくらいの年齢で。テレビアニメ放映が始まった頃は青年漫画編集部でのたうち回っており、ジャンプが歴代最高部数653万部を達成した1995年3 ・4号でスラダンが巻頭オールカラーを飾った時は、すでに漫画を離れ、週刊誌編集者としてのたうち回るどころか瀕死の状態でした。

短期間のすみっコぐらしではありましたが、青年漫画編集部に在籍した身としては、超ヒット漫画に対して素直に「すごい」と思えない、こじらせた感情があったんです。だから、ネットフリックスにおりてきたら観るかな~くらいの余裕をぶっこいていました。

感想を一言で言うならば

GW真ん中の日、なんとか錦糸町楽天地(しぶい街だよね、映画館は駅上で便利)最前列でぽつんと空いた一席をネット予約し、スナックじゃがシチリアハーブソルト味を買って劇場へ。右隣はお父さんと来た小学生男子がちょこりんと座り、ちょびっとチキン(個人的にTOHOシネマズフードメニューではいちばんおすすめ)を食べている。左隣は、全身黒ずくめの、私と同世代くらいの男性がポップコーン&コーラの鉄板メニューで準備万端オーラを全開にしてる。そして恒例の紙兎ロペさんのauスマートパスのCMを観て、映画泥棒の華麗な動きを見せられて、・・・・上映開始。

えと、内容については、すでにnoteやYouTubeなどでいろんな方がすばらしいレビューを公開されているのでここで多くは語りません。

感想をヒトコトでまとめるならば「か、か、かっけーーーーー!」。エンドロールが始まるまでひたすら「か、か、かっけーーーーー!」と脳内で叫んでいました。絵も、動きも、音楽も、静寂も、ゴールした時のパシュッって音も。2時間2分、かっこよさに浸れる世界なんて、大人になるとそうそうないんですよ!!

思い出せば小中学生の時、すでにアスリートの片鱗を見せていた運動のできる男の子が活躍する試合をうっとり眺めてしまうことがあったっけ。リアル男子には興味なかったので、私の〝うっとり〟の対象は彼の俊敏な動きや点数につながる正しい反応の美しさだ。そのうっとりが2時間2分続くわけです。

漫画スラダンから映画スラダンへ。この30年のいろんな思いが渦巻いて脳内回路がショートしたのは、映画を観終えてからでした。カームダウンするために錦糸町から押上駅まで歩き、スカイツリーそばのエクセルシオールでコーヒーを一気飲みししばし放心。

隣席男性(赤の他人)が泣き出した

ちなみに臨席のポップコーン男性は、冒頭〝エンピツ〟のシーンで嗚咽スタート。ギョッとしたけど、今なら分かるよあなたの気持ちが。きっと5回目の観賞だったんだね。毎回、見る度に新しい発見があって、そんときも何か見つけてしまったんだね。もしくは4回分積み重ねた感動の一部がダダ漏れしてしまったのかもね。〝エンピツ〟のシーンは、漫画家井上雄彦氏による「紙とエンピツ。そのふたつがあれば、俺は世界を創造できる」宣言のようにも思えて、私もグッときましたから。

成否の境界線はどこにあるのか

成功の理由が、「原作、脚本、監督/井上雄彦」にあるのは誰も否定できないと思う。実写映像化でよく目にする、ファンからの「こんなん◯◯じゃない」という激しい批判が起こりにくい。また原作者が脚本や設定に納得せず、途中でクレジットを外すとか、SNSで観ません宣言するような、哀しい事態も起こらない。

だからといって、原作に忠実に作ればヒットするわけでないことは、過去の成功作品をラインナップすればわかる。「カーンチ!」と叫ぶ鈴木保奈美がとんでもなく魅力的だった『東京ラブストーリー』(1991年放映)は、鈴木演じる赤名リカのキャラクターが原作に比べてずいぶん薄味だ。しかしトレンディドラマ真っ盛りのあの頃、漫画通りに制作されれば、夜9時には自宅に帰ってドラマを見、翌朝6時には満員電車に揺られる〝ふつうの〟女性たちをテレビの前から動けなくさせてしまったかナゾである。

『カバチタレ!』(2001年放映/勝手に、篠原涼子がコメディエンヌの才能を開花させた最初の作品と思っている)では、主役が女性に変更されていた。(『カバチタレ!』が該当するかどうかは不明だが、演者のキャスティングが先に決まっている場合は、こういうケースもあると思う。)

映画スラダンも、じつは原作とは大きく異なる。なんたって主役が違うのだ。事前情報ナシで観た私は、まずそこにびっくりさせられた。でもその理由についてもエクセルシオールで自分なりに解析して納得した(こういう考察は本当に楽しい。だれにも頼まれてないし、仕事にもならないんだけど、実に楽しい時間だ)。

原作者、映像制作側、どちらも苦しい?

何作も自著が映像化されている小説家さんから、「映像(化)は作品の存在を知ってもらえるためのチャンスだととらえている」と聞いたことがある。だから「向こうにもいろいろ事情があるし(キャスティングやスポンサーの意向など)、自分の作品の一部や延長だとは考えないようにしている」。しかし「ときどき、どうしても納得できないものもあって、泣いてしまう」。泣く理由は「納得できるまで自分が深くかかわれない悔しさから。そんな時間も力もないし。映像化ありがとうございます!の姿勢でいないといられない不甲斐なさ」である、と。

同時に、何度も何度も案を見せても原作者にOKをもらえず、試行錯誤してようやく完成・公開にこぎつけられたと思ったら、原作者からダメ認定され、興行的にも失敗し、心が折れた、という制作側の声も聞いた。

作品を作るって、ほんとうに、なんて、途方もない、心も肉体も魂も差し出すような、もしくは削り取るような作業なんだろうーーと、切ない気持になった。

作品を観る者が負う責任

そうだ、『SLAM DUNK』作者の井上氏は、私と誕生日が近い。彼が漫画スラダンを描き始め、映画スラダンに行き着いたこの30年と自分の30年をダブらせると「私の30年っていったい・・・・」と呆然としてしまう(←ダブらせること自体失礼)。

同世代の漫画家さん、その界隈にいるひとたちで、同じような思いに駆られたひともいるんじゃないかと思う。

すんばらしい作品って、そういう、どうしようもない気持ちもセットで差し出してくるんですよね。

文/マルチーズ竹下

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