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痴呆の時間

母の痴呆が進んでいます。
現在では認知症という言葉が使われるようになっていますが、意味が分かりません。認知病とか認知障害ならともかく。
「知る」ことが病になっている、だとか「呆ける」というのを差別用語だとするのだとしたら、差別だと感じること自体が差別ではないでしょうか。「知る」ことが病(痴)になっているというのは、洗脳などから鋼のアーマーで強固に守られた状態。「呆ける」のは一種の悟りの境地だともいえるのではないでしょうか。

一人暮らしをしているのですが、安否確認の電話をしても、電話に出てくれる頻度が大幅に減りました。無視しているのではなく、電話を扱う能力、電話に出る能力が低下しています。住み替えの頃合いです。

でも、電話で会話のできる頻度が減ってきていることを嘆いたりはいたしません。
電話の管理ができなくなってきていることも不安に思ったりはいたしません。

痴呆もいいではないですか。
自分自身なら、急病などの突然死が世話がなくていいわと思ってしまいますが、徐々にコミュニケーションの頻度や質が下がっていくというか、薄まっていくというのも、ありかなと。徐々に死んでいくというか、関係性が消えていくというのもいいのかなあと。
何年か痴呆をへて、徐々に遠くなって、母が亡くなったときには、娘の私にはそれなりに受け入れ態勢ができているだろうなと。
生きているというのは、ゆっくり死んで行っているということだと思うのですが、その死への移行の仕方が、いわゆる「生きている」状態よりも早めだということなのかなと。

2週間ぶりに母に電話がつながりました。しばらくおだやかに話をしているうちに、最近の彼女のお金への執着がまた出てきてしまって、話が通じなくなってしまいました。こちらも疲弊してしまっては仕方がないので、いったん電話を切りました。

1時間ほど時間を置き、そうだ、庭のバラの話をしていないなと思い、また電話します。来シーズンに、彼女が買ってくれた苗から育てたバラの話ができるかどうかわからないので、真っ盛りに咲いているいまが大切です。今年の花の色味を伝えたい。秋に行った剪定が効果的だったことを伝えたい。
母の住み替えの手続きのなかで、姉との関係改善が得られたこと、きょうだいがいてよかったなと思えるようになったことを伝えたい。
私が今しあわせを感じて日々を送っていることを伝えたい。
今日、私の住む地方がさわやかに晴れて、窓からの風が気持ちいことを伝えたい。

一時間たっていたからでしょうか。母はまたおだやかな人に戻っていて、しばらく会話と楽しむことができました。

痴呆ばんざい。

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