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閉経と法の予感

そうか。しばらく書いていなかったんだ。夫の手術の件も。でも今書きたいのは生理のこと。

とはいえ、ほんの少し、茶色いのがトイレで垂れるだけ。それを見た私は、身体が女でありつづけようとして頑張っているのだな、とか、昨日久しぶりにFさんにメッセージしたからかな、とか、逆にホルモンの都合で身体にあやつられFさんにメッセージしたのかなとか考えた。

いや、違う。次の瞬間に思った。ナラティブなんて要らない。生理があるから女とか、身体が私の行動をコントロールしているなど、ナラティブなんていらない。解釈なんていらない。解釈はいつでもロジックとナラティブから自由になれない。全ては一本の相関関係にあるのではなく、同時進行的というか、関係があるようなないような。あるとしたら、その「関係があるようなないような」状態のあり方の法があるだけ――ああ。仏法ってこれか。箱の外の法、The law which is outside of the box。春が来るから花が咲く、はロジックやナラティブ。科学。しかし、「春が来るから花が咲く」という法の説明は何もしない。「から」をなくして、「春がくる。花が咲く。」のほうが全体性に触りやすい。

小学生の時、八雲先生という理科の先生が給食の時間に教室をまわってきて、理科の質問を受け付けたことがある。私は、蹴込板のない階段に落ちる私の頭の翳が、次の階段の翳に近づくと、階段の翳としゅっと一体化し、接触する部分が砂時計のくびれのようになるのはなぜかと質問した。先生からは腑に落ちるような回答は得られなかった。それ以来、どんな回答への答えもさらなる質問を生むだけで、どこまで行っても回答がないと感じ続けた。アカデミアに身を置いても。今も。いや、今さっきまで。私が求めていた回答は、法だったのだと思う。残念ながら、現段階での私の法の理解をうまく伝えることができない。でも感じる。別にわたしは出家したいわけでも、仏教を極めたいわけでもない。特定の、宗教といわれるものに寄りかかろうとも思わない。

ただ、感じるだけ。感じるといっても、「腕に何かが触れた感じがする」という「感じ」でもないし、「あの人は私を嫌っている感じがする」という「感じ」でもない。予感にちかいのだけれど、もっと身体的な感覚でしょうか。ああ、もうこの一単語だけでも表現するのが難しい。私全体での予感というか、私全体での嗅覚というか。

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