26歳、オフィスを借りるお金もなく、田んぼでアポをとっていた頃の話
僕が経営する会社は、ありがたいことにいま急成長しています。2023年度の売上は30億円を大きく超え、前年度の約3倍に。メンバーも300名を超えました。
これからますますアクセルを踏んでいくところです。
ただ!!
創業した6年前はめちゃくちゃ大変でした。
お金がないのでオフィスも借りられない。考え抜いたはずのビジネスモデルも「いける!」と「やっぱりダメか!」の繰り返しーー。
毎日「お金が尽きる……!」「ヤバいかも……!」と焦っていました。
そんな状況からどうやって軌道に乗せることができたのか? そんな大変な日々を、なぜ心折れずに乗り切れたのか?
これから挑戦しようと思っている人、いま挑戦している人を応援する意味でも、今回は創業初期の日々のことを、赤裸々に書いてみたいと思います。
ノープランで「会社辞めます」と言ってしまう
26歳のクリスマス。
新卒で入った会社、エス・エム・エスを僕は辞めようとしていました。
僕「いま、来年のことを考えてて……」
先輩「おお、黒崎。どうすんの?」
僕「あの、会社、辞めようと思ってまして」
先輩「え? なんで? 今からじゃん。うまくいき始めたとこでしょ?」
僕「いや、そうですよね。でも、どうしても起業したくなっちゃって……」
入社3年目、任せてもらった新規事業は軌道に乗り始めているところでした。先輩は言います。
「俺は起業する気持ちはわからないな。リスクだし。途中でやめられないし。もうちょっと考えたほうがいいよ」
僕は「わかりました」とだけ言って、年末年始に考えることにしました。
「黒崎、起業するんだってな。頑張れよ!」
でも、結論は変わりませんでした。
年明けに出社すると「黒崎、決まった?」と聞かれたので「やっぱりやりたいです」と答えました。先輩は「そうか。まあ、やりたいならしょうがねえな」と言ってくれました。
起業への熱は高かったのですが、具体的なアイデアはまったくありませんでした。退職を報告した上司からも「何をやるか決まってるのか?」と聞かれたのですが「ないです」と答えていました。
「お前、マジで考えたほうがいいよ」と何度も言われたのですが、僕はずっと「いや、いいんです。いま考えても何も出ないんで。出るときは出るんで、大丈夫です!」と言っていました。
あっさり退職を決めた僕でしたが、それから1週間くらい経つと「やっぱ怖いかも……」「起業するのやめようかな……」という気持ちも出てきました。しばらく食いつなげるような貯金もなかったのです。
ただ、時すでに遅しーー。
僕が辞める話はすでに社内に広がっていたのです。トイレで他の事業責任者に会ったときも「黒崎、起業するんだってな。頑張れよ!」と言われました。「あ、やばい……。これもう、絶対辞めなきゃいけない流れだわ」と思いました。
起業家、投資家に会いまくる
会社を辞めた僕は、まず人に会いまくることにしました。
とにかくいろんな起業家や投資家の方に会いに行って話を聞きました。「これまでとは違うインプットをしないと新しいアイデアは出ない」と思ったからです。
「こういうことを考えてまして」「起業しようと思ってまして」と相談に行くと、ほとんどの方が会ってくれました。みなさんめっちゃ優しかったです。「こういう借入をしたほうがいいよ」とか「この銀行がいいよ」とか、いろんなことを教えてくれました。
起業家の先輩たちもやっぱり苦労してきているんです。だから後輩の僕にいろんなことを教えてくれた。みんな誰かから助けられてきてるから、誰かを助けようとします。
逆にいま僕らが「創業したいのですが」という相談を受けたら、銀行を紹介したり、いろいろやってあげるようにしています。それは何か見返りが欲しいとかそういうことではなく、僕ら自身が創業期にいろんな人たちからものすごく助けられたからなんです。
世の中にあるすべての産業を研究する
いろんな人に会っていくなかで「経済センサス」という資料の存在を教えてもらいました。総務省が出しているもので、あらゆる産業のデータが全部まとまっている資料です。
早速僕は、資料をダウンロードして見てみました。
日本の産業は、大きく分けると「農林漁業、建設業、サービス業…」という具合に17種類なのですが、小分類で見ていくと949の産業があります。
僕はそれらすべての産業について「どれくらいの会社や事業所があるのか? 人数はどれくらいか? どれくらいの売上があるのか?」をチェックしていきました。
結果、見えてきたことがありました。
それは、物流、製造、建設の分野に大きな目立ったプレイヤーがいないということでした。小さい事業者がたくさんいるのに、そのプラットフォームになるような存在もいない。
たとえば医療には「エムスリー」がいます。生命保険には「ライフネット生命」がいます。飲食には「食べログ」がいる。各産業、だいたい目立つプレイヤーがいるんです。だけど物流、製造、建設に当時、そういった大きなプレイヤーはいなかった。
「大きいプラットフォームがない分野は面白そうだな……」
この頃から「どうせならいちばん大きなプラットフォームを作れる産業でやりたいな」と思うようになりました。
しかも、物流は「ECが増えていくことで需要は増えるのに、働く人は減っていく」という需給ギャップがあることがわかりました。少なくともここから10年間はトレンドが上向くはず。そうすると大手は入らないけど、スタートアップにとってはチャンスがある、ちょうどいい業界だなと思ったんです。
さらに他にもいろんな観点でいろんな話を聞いて「よし、ここだったらベットしてもいいんじゃないか」という結論に至り、まず物流業界でドライバーの人材紹介を始めることにしました。
ちなみに「ドローンとか自動運転が来るから難しいんじゃない?」と言われることもありました。でも僕は「ほんとに?」と思ったんです。あと10年は来ないでしょ、と。
そこでちょうどご縁のあった、人工知能に詳しい大学の先生にも「自動運転って来ますかね?」と聞いてみたのですが「黒崎さん、あと10年は来ない。法律が変わる必要があるからね」と言われました。
僕は「これは間違いないだろう」と思って、物流業界での起業を決めたのです。
事業が成り立ちそうか、検証を繰り返す
まずは、求職者向けに簡単なサイトを作りました。いわゆるLPです。そこにドライバーさんへ向けた広告を出すわけです。
LPをただ出しているだけでは見つけてもらえないので広告も出します。広告媒体に数十万払って広告を出す。当時はお金がなかったので身を切るような思いでした。
申し込みが入ると通知が来ます。「来るかな〜」と待っているところにポンと通知が届く。「おっ、来た!」といって5分以内に電話していました。
創業当初は「本当にこのサービスがうまくいくのか?」という検証の繰り返しでした。
知りたかったのは「顧客獲得単価(CPA)がいくらか?」という入口の単価。「企業さんがいくら支払ってくれるか?」という出口単価。あとは「マッチングの率」です。
この3つが見えてくれば「利幅がどのくらいになるか」がわかる。「まずはこの3つを見つけよう」と決めて、仮説検証を繰り返していました。
この時点ではまったく収益にはなっていなかったのですが、まずは「企業にはニーズがあるし、求職者も集まる」ということが確認できただけでも大きな収穫でした。
転職マッチングには資格が必要だった
ちなみに「求人媒体」と「人材紹介」は違います。
当初やっていたのは、集客するだけの「求人媒体」です。企業さんを集めるだけで、まだマッチングの成約はしていない状況です。
ただ「人材紹介」をやるには、有料職業紹介の資格を取得する必要がありました。資格の申請は会社を立ち上げたその日に出したのですが、取得までに3ヶ月かかります。
最初の3ヶ月は「マッチング」をやってはいけない。だから当初は、求人媒体のサービスを企業さんに売っていました。「うちに掲載してくれませんか?」と、とにかく電話で営業するわけです。
サイトを見せても載っている企業は8社くらい。だから「御社、ぜんぜん載ってないけど、ほんとに来るの?」と言われていました。
でも、僕は「そう思われますよね。でも、逆に来るんですよ。8件しかないから逆に御社が目立つんです!」という謎の営業トークをしていました。それでも「うーん、いや、いいわ」とガチャッと切られて落ち込む。
そんなことの繰り返しでした。
求人媒体の事業は企業から先にお金をもらうことになります。だから、すごく売りにくいのです。かといって、求人媒体の事業を止めるとお金がなくなってしまう。どうしても売れないときは料金を下げたりして、なんとか調整しながらやっていました。
そうこうしているうちに、人材紹介の認可が下りました。そこから全力で人材紹介を売り始めることにしました。人材紹介であれば、集客力をフルに活かせるので、うまくいけば大きな事業になります。
「よっしゃ、どんどん売っていくぞー!!」と意気込んだのも束の間。世間はそうそう甘くはありません。ここから、地味で、死にそうな日々が続くことになるのです……。
社員3人とインターンの大学生
創業時、メンバーは僕以外に2人いました。
1人は前職の後輩です。僕が起業したことを知ると「黒崎さんがいなかったらつまんないから、僕もそっち行きます」と言って来てくれました。
2人めの植木さんは、エス・エム・エス時代に知り合って仲良くなった人。マーケが得意で「合理化の化身」みたいな超天才タイプです。「ふんふん、ふんふん」って鼻歌を歌いながら散歩したり、花に水やりしたり……とにかく変わった人ですね。
彼と初詣に行ったとき「会社を辞めようと思ってるんですよね」言うと、植木さんも「僕もそろそろ会社辞めようかな」と言います。「次、何するんですか?」と聞くと「黒崎さんと働こうかな」と言うんです。
僕は嬉しかった反面、「そんな気軽に決めちゃって、この人大丈夫かな?」と不安になりました(笑)。ちょっと怖かったです。
あとはインターンの大学生を4〜5人くらい集めて、計7人ほどでスタートすることになりました。
オフィスを借りるお金がなかった
最初の1年間は、オフィスがありませんでした。
資本金が500万円で、もろもろの経費を差し引くと、残りが350万しかなかった。オフィスを借りたら即死です。だから家でやることにしました。
「みんな、家に集合だー!」と言うと、朝9時に社員とインターンのみんながピンポーンとやってきます。「おはようございま〜す」とインターン生が来て「じゃあ、今日も電話頑張ろう!」と言って、一斉にみんなで電話し始めるわけです。
大学のキャンパスの端っこや公園などで「青空架電」したこともありました。当時は東京オリンピックが話題だったので「俺らはテリリンピックだ!」といって電話しまくっていた。
冬が近づいてくると「うー、さみい」と震えながら仕事をしていました。
「家で電話してるだけじゃん」
当時の僕らには何もありませんでした。
潤沢な資金もなければ、オフィスもない。ふと我に返ったときに「ここ、家じゃん」となるわけです。「え? 家で電話してるだけで大丈夫なの?」と。
インターン生たちも「これ、ホントに正しいのかな?」と不安がり始めました。「黒崎さん、方向性合ってるんですか? 夢って言いますけど、どこにあるんですか?」と聞かれたこともあります。
僕はそのたびに「あるぞ! この先にある!」と言い続けていました。
役員の報酬は月5万円。
だから定期的に「個人PL、大丈夫? 個人BS、大丈夫?」という話をするようになりました。「俺、個人PL赤ですね」「僕は個人BS、まだいけます」みたいな会話が飛び交っていました。
(あの頃に比べれば、今は天井もあるし、エアコンもある。すごく恵まれているなあーと思います。初めてオフィスに入ったときは「よっしゃ」と言ったくらいです。)
「行けるぞ!」「ダメか!」の繰り返し
テレアポの本気度はすごいものがありました。
「自分が案件を取れるかどうか」が会社の預金をダイレクトに左右するからです。イカゲームみたいな状態。1年目は「ヤバい。ここで負けたら死ぬ!」みたいなストレス状態がとにかく続いていました。
最初は、ほんとに「突破あるのみ!」という感じです。カッコいいロジックなんかありませんでした。
そうやって電話していると、2週間に1回くらい「いけるぞ!」と感じる瞬間が訪れるんです。正確に言うと、2週間に一度、勘違いが起きるんです。僕が何かしらいけそうな方法を見つけて、みんなに「あ、いけるぞ!」って言うんです。でも実は、あんまりいけてない。
みんなは僕の言葉を信じて「いけるかもしれない」といって進みます。で、行ってみると「ああ、ダメか」となる。また2週間「ヤバいヤバい」とやっていたら、また「いけるぞ」と次の可能性を見つける。
創業時は、そんな「幻影」の繰り返しでした。「いけるぞ」と思ったら、すぐに「ダメかも」と思う。その繰り返しでした。
「別の事業のほうがいいのでは?」という誘惑
必死でやってはいたのですが、それでもなかなかうまくいかない状態が続く。
すると始まるのが「議論」です。
「そもそも、このサービスの需要がないんじゃないか?」
「スキームがおかしいんじゃないか?」
「実は別の事業に鉱脈があるんじゃないか?」
エス・エム・エスでの経験上、新規事業は最初の3ヶ月がすごく大切だということがわかっていました。まずは最初の3ヶ月で一気に突き抜けることが大切です。そのあいだに「別の事業をやったほうがいいんじゃないか?」という誘惑が生まれるのはよくある話。
僕らも案の定、そうなりました。僕自身、こうなるとわかってはいたものの、その誘惑に負けて議論に付き合ってしまったのです。
「そもそも、人材紹介って求められてないんじゃないですかね?」「いや、人材紹介はいいんだけど、業界を変えたほうがいいんじゃないかな?」「やっぱりアプリを作ったらいいんじゃない?」
……こんな謎の「無限アイデア編」が1週間ほど続いたのです。
気持ちはわかります。みんな何かをやりたくて来てるのに、実際にやるのは安いパイプ椅子に座って架電するだけ。ほんとはみんな戦略などについて議論したいんです。
僕も議論に付き合ってしまい、それは2週間目に突入しました。
「明日も議論したらキャッシュアウトするよ!」
ただ、幸か不幸か、そのときの残金は380万円ほどでした。
そもそもアプリを開発する費用なんてありません。というか、そもそも議論をしている時間もなかった。あと1週間も議論を続けたら、資金が尽きて死んでしまう状況だったのです。
僕はハッとして言いました。
「この数字見て。もし明日も議論したらキャッシュアウトするよ! もう議論は禁止! みんな電話しよう! こっから1ヶ月間でなんとか突破するよ!」
するとみんなも「まあそうだな……。ここまで3ヶ月間やってきたし。やるしかないか……」という感じになったんです。
焚き付けている僕も、内心は怖かったです。
毎日「いま、残り320万ぐらいです」「今日は400万に増えました」「あ、ヤバい、今月売上出てないから、380万円に戻りました」と残金の報告があるのですが、それを聞きながら「うわあ、なんとかギリギリ行けそうだ」みたいに思っていました。
川沿いをテレアポしながら歩く
アポが取れたら、脈のありそうな会社さんを訪問します。
物流会社は、たいてい高速道路のインターチェンジ近くの大型物流倉庫のまわりに密集しています。車で営業できればラクだったのですが、僕は運転ができませんでした(笑)。初めて運転したときに事故りそうになったので運転をやめてしまい、ペーパードライバーだったのです。
だから、基本は電車移動。
お金がないのでタクシーにはもちろん乗れません。駅から物流会社までは、ずっと田んぼや川沿いを歩いていました。
あるときは、片道2時間半かけて飯能の会社まで営業に行きました。川沿いを歩いて行って、ようやく会社について、いろいろ話したのですが「そうねえ、話してることはわかったけど、おたくらよくわかんないからいいわ」と断られてしまいました。
そのときばかりは「あああ、この時間なんだったんだろう……」と落ち込みました。社員から「黒崎さんどうでした?」とSlackのメッセージが飛んできて「ちょっとうまくいかんかったわ~」と返信をして。
もう時間を無駄にはできないので、落ち込みながらも駅までの帰り道は電話し続けました。
「もしもし、黒崎と申します」と。電話して、電話して、電話して……。営業に同行したインターン生にも「こうやってやるんだよ」と教えたら、その子も歩きながら電話をかけ始めました。
2人で「もしもし」って言いながら、夕暮れの川沿いを歩いていました。
初契約。「取れたぞー!」とSlackで盛り上がる
当時は「ヤバい、もうこの1ヶ月しかない!」という状況だったので、とにかく必死に電話していました。なんとかしなければ、と。ランチのときもずっと電話していました。
そんななか、たまたま訪問した会社さんで、やっと契約が取れたんです。
最初に契約いただいたのは、段ボールの資材を配送する越谷の物流会社さんでした。
物流会社の社長さんは言いました。
「段ボールの古紙って、積み下ろしがあるからけっこう大変なんですよ。だから人が集まらなくて……。いまトラックが3台くらい空いちゃってるから、いい人が来るんだったら君らのサービス、やってみようかな。値段的にも悪くないし」
僕は即座に「ほんとですか! じゃあ、いま、この契約書にサインしてもらえますか?」と頼みました。「あとで契約書を送るのも怖いな」と思ったのです。いま振り返るとちょっとどうかと思いますが、それくらい必死でした。
その場に印鑑がなかったので、契約書に手書きで名前を書いてもらいました。
契約が取れると僕は、Slackで「取れたよ〜!」とメッセージを送りました。するとみんなは「オーッ!」「キタキター!!」と盛り上がりました。
僕は「未来、あるよ~!!」と返しました。
そこからは、どんどん契約が取れるようになりました。なぜかひとつ契約が取れると、そのあとは取りやすくなるんです。おそらく「取れないだろうな……」と思いながら売るのと、「取れる」と確信を持って売るのとではお客さんへの伝わり方が違うのだと思います。
(ちなみにこの企業さんとは、いまも継続的にお付き合いさせていただいています。 本当にうれしい限りです!)
最初の契約が取れてからは「いける! いける!」というように車輪が回り始めた感覚がありました。
「失敗」ではなく「仮説の否定」
事業をうまく軌道に乗せるまでは、毎日そんな感じでした。
ほんとに大変でしたね。つらかったことはすぐに忘れてしまう性格なのですが、こうして振り返ったら「そういえば大変だった……!」となりました。笑
普通にやっていたら、心が折れていたと思います。だけど折れてしまっては、いつまでも事業が立ち上がりません。なんとか最初の数ヶ月で突き抜けないといけない……。
立ち上げ当時から僕は、今のビジネスモデルにそこそこ自信がありました。「40億から60億くらいまで行く可能性はあるだろうな」と思っていました。「3億くらいはすぐ行くだろう」という見立てもあった。
けれど、そのときの僕はまだ経験が浅かったんです。
そんなにすぐにうまくいかないのはわかっていましたが、頭で「いける」と思っていた部分がうまくいかなかったりすると、やっぱりすごく苦しかったです。
そこで途中から「すべては仮説と検証だ」と思うようにしました。
すると、たとえうまくいかなくても、それを「失敗」ではなく「仮説が正しくないことがわかった」だけと捉えられる。つまり「進歩」だと思えるようになるんです。
「失敗」と捉えると、組織のテンションもどんどん下がります。でも「仮説を立てて検証した結果、違うとわかった」と捉えると「次に行こう」と思える。それからはもう2秒くらいで切り替えられるようになりました。
うまくいかなくても「これは失敗ではない! 学びと思えばつらくない!」と毎日言いながら架電し続けていました。まあ、それでも実際かなり大変ではあったんですが。笑
「遊んで試す」だけでは死ぬことがわかった
僕らの社名は「PLEX」です。
これは「Play(遊ぶ)」と「Experiment(実験する)」を組み合わせた造語。「遊んで試すんだぞ」というマインドを大切にしようと思って、社名にしました。
冷静に見るとヤバい状況も「今は試しているだけだ」「検証しているんだ」と思うことでギリギリ乗り越えられることができました。
でもあるとき、本当に「遊んで試す」しかやっていないことに気づいたのです。あたりまえなんですけどね。笑 起業して3ヶ月くらいの頃でしょうか。PLを見て冷や汗をかきました。「このままみんなが遊んで試し続けたら、死んでしまう」と気づいたんです。
大切なのは、結果を出すこと。きちんと「実現」することでした。
それで、会社の由来にもそれを書き加えました。「遊んで、試して、実現する」という意味の「プレックスアウトプット」という言葉に変えたんです。
僕はみんなを集めて、こう言いました。
「みんな、実現するところまでがセットだからね! 遊んで、試して、実現するところまでやらないと死んじゃうからね」
僕らの歴史はまだまだこれから
人材紹介のサービスで最初の契約が取れてから、約6年。
ドライバーの求人・転職サイト「ドライバージョブ」は「プレックスジョブ」と名前を変え、物流だけでなく、建設・エネルギー・製造といった「インフラ産業」の人材紹介の支援をさせていただくサービスに成長しました。
今では15000社、70万人の方々に利用していただくまでになりました。
また、設備工事・メンテナンスに特化した業務支援クラウド「サクミル」や完全成功報酬制のM&A仲介会社「M&A支援機構」など、事業の幅も広がってきています。
「2024年問題」にはじまる人手不足、DXの遅れ、後継者不足……
インフラ産業の課題は、まだまだ山積みです。
インフラの課題は「日本の課題」でもあります。僕らは、その解決を担う会社になりたいと思っています。そういう想いで3年前に刷新したミッションは「日本を動かす仕組みを作る」です。
日本の未来を担う会社になりたい。
大それた目標に見えるかもしれませんが、本気で実現するつもりです。最初はオフィスすら持っていなかった僕らが、6年かけてここまでこれたんですから。
未来はいつも「見える……か?」「やっぱり無理かも……」「いや、見える! ギリ見えるよ!」ぐらいのものなんだと思います。そして、あきらめずに仮説検証をくり返していけば、必ず実現できる。
おなじ未来を信じてくれる仲間と一緒に、これからもがんばっていきます!
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一緒に「日本を動かす仕組みを作る」仲間を募集しております! 少しでも興味をお持ちくださった方は、お気軽にDMください〜!
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