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エイプリル・フールに《結婚動機》について想う

今年もこの日がやってきた。
これほど憶え易いのも珍しいが、今年はそうと気付かず、昼メシの時に指摘された ── 結婚記念日であーる。

といっても当時は学生だったこともあり、家族の一部で式だけ挙げ、披露宴はやらず、ハネムーンなども行かず、『ぷりんとごっこ』で手書きの連絡はがきを作り、親類や友人に送っただけという簡素なものだった。
(もちろん私側の友人は、日付と送り主の日頃の行いを鑑みて、誰も信じなかった)

この時学習したのは、いわゆる『お日柄』が良くてもエイプリル・フールに式を挙げようというカップルはかなりまれだということで(今はどうかな?)、やはり、
「あ、あの話? もちろん冗談だよ」
と後日相方に笑って否定されるのを警戒しているのだろうか?

『エイプリル・フール』は漢語表現で『万愚節』、中国語では『愚人節』と表わすそうで、確かに印象は良くないかもしれないが、結婚なんて所詮、愚人どうしがあてにならないお約束を交わすようなもの、むしろ、年に一度のこれ以上ない『お日柄』なのかもしれない。

実際、我々も当時1,000 kmほど離れて暮らしており、公衆電話をかければ百円玉が滝のように流れ落ち、会いに行けば片道半日かかる ── 一緒に暮らすには婚姻と言う形式を取るしか方法が無かった。
どちらも、仕方がないのでとりあえず、というノリだったのに、そのまま長きに渡ってしまった。

一般論としての『結婚』に関して個人的に思うのは、
後日「どうして結婚なんかしてしまったんだろう?」
と思った時(たいていは後悔した時などに)、
『**という明確な理由があったので結婚したのだ』
とはっきり振り返られる状況があった方がいい

── ということだ。
その方が長続きする、というような意味ではなく(長続き自体に意味はない)、
・あの時の判断は正しかった、と認識し自己肯定した上で前に進むことができる ── からである。
その意味では『授かり婚』などはこの部類に入るのかもしれない。

親元から離れアパートでひとり暮らしをしていた友人は、いくつか縁談があったが面倒で断り続けていた。
しかし、ある時、数日続けて高熱を出し、まったく動けず、医者にも行けず、病床でこのまま餓死するのではないか、と恐怖に怯えたという。
そして、薄れゆく意識の中で、
「もし、この病が治ったらお見合いをしよう、そして、誰でもいいから最初の人と結婚しよう」
と決心した。
(彼の結婚式にスピーチを頼まれ、このエピソードを紹介したら、新婦側の顰蹙を買うこともなく、むしろ、大ウケだった ── ジョークと思われたのかもしれないが)

── 今年もこのカップルから年賀状が届き、ふたり並んだ写真が印刷されていた。
奥様の事情は知らないが、少なくとも彼の側に関しては、
・これほど明確な結婚理由はない
わけで、それは素晴らしいことだ、と思うのであーる。

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