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の 『能登半島』


今年1月1日能登半島地震を、日本人は一生忘れることはないだろう。1月1日というそのタイミングや、直後に起きた関連飛行機事故もあいまって、アメリカ人にとっての「9.11」にも似たトラウマ体験として、日本人の心に植え付けられた。

今も大変な思いをしている方にお見舞い申し上げます。

実は2007年3年にも能登半島は大きな地震に見舞われていたことを思い出した人も多いのではないだろうか。僕は当時愛知県に住んでいて、教会の仲間たちとボランティアに出かけた。あれは4月だったのか5月だったのか、覚えていないけれど、僕と20代男性の友人と親友夫婦の4人で、僕の軽自動車で行った。教会のボランティアとしてではなく、自分たちで石川県のホームページを調べて、ボランティア募集の項目を見つけて応募して参加した。蒲郡から岐阜を通り、信じられないほど長いトンネルをくぐると石川県に入っていた。交替しながら徹夜でドライブした。

早朝に金沢市の県庁の駐車場に集合し、50人乗りのバスに集まったボランティアが全員詰め込まれた。僕たち4人はバスの中でいつもどおり語り合いながら、県の職員の方の説明を受けた。日本海を左に見ながらバスは1時間半ほど能登半島を北上した。現場はゴミ処理場だった。職員の方が言った。発災から1週間で、通常の2か月分のゴミが運ばれてきて、職員は途方に暮れていると。

配られた軍手を装着し、僕たちは丸一日、粗大ゴミの分別を行った。木は木、紙は紙、金属は金属、ガラスはガラス、というように壊れた家具を中心に僕たちは分別していった。バール、鉄のハンマー、レンチ、ドライバーなども駆使しながら無心で作業した。こういう言い方は不謹慎だが、楽しかった。こういった単純作業が僕は元来、大好きだ。参加した他のボランティアの方々も生き生きとしていた。汗を流し、夕方に石川県庁舎に戻り、たしかまた深夜にドライブして蒲郡に帰った。ヘトヘトだった。20代だからできたのだと思う。ゴールデンウィークの半分を費やした「ボランティアツアー」だったが、今でも時々、友人たちとの良い思い出として思い出す。

バスの中で他の参加者の方々とも話した。驚いたのは、ボランティア参加者の半数以上が神戸から来ていたことだ。神戸からの参加者が異様に多かったのだ。蒲郡よりもさらに遠いだろうに、参加者の方々は口々に、阪神大震災のときにボランティアの方々が来てくれてどれだけ嬉しかったかを語り、少しでもお返ししたい、と話してくれた。人は、自分が大変な目に遭うと、他の大変な目に遭った人の気持ちが分かり、きっと身体が動くのだ。これはテレビやラジオでは知れない、生きた情報だと思う。今回の能登半島地震でも、多くの東北や熊本の方々が駆けつけているのではないかと僕は類推する。

傷つくのは辛い。でも、傷つくことのメリットは、他者に優しくなれることだ。昨年から僕はLGBTコミュニティの方々と話すことが増えたが、彼らの多くも、他者に対してとても優しい。「傷つく神」を信じるキリスト教徒として、僕はそういったことを学んでいる。


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