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よにでし読書会 3月22日開催 解説②

 今月の書籍:『お金の向こうに人がいる』 
 開催日:2024年3月22日金曜日 20:00~21:30




●お金の向こうに人がいる

著者:田内学
出版年:2021年
出版社:ダイヤモンド社

リンク:


▼▼▼偽札を作ってはいけない理由▼▼▼


→P46~47 
〈さて、さっきの4兄弟がマルク紙幣をコピーするようになったら何が起きるか?
 4兄弟は面倒な家事から解放される。コピーした紙幣を税金として払えば良いから、働く必要がなくなるのだ。でも、彼らに働いてもらえないと困る人たちがいる。
 それは、お母さん(政府)ではない。困るのは、4兄弟自身だ。
 みんなのために働く人がいなくなってしまった。4兄弟一人ひとりが、自分のために食事を作り、自分のために洗濯をしないといけなくなる。マルク紙幣が生活を支えているわけではない。マルク紙幣を手に入れるために4兄弟が働くことが生活を支えているのだ。
 紙幣をコピーしてはいけないのは、「価値が薄まってしまうから」ではない。
 「みんなが支え合って生きていけなくなるから」だ。
 たった4人の社会だろうと、1億人の社会だろうと本質的には同じだ。

、、、第1回の解説で、
「お金というのは人が人のために働く社会が実現するためにある」
ということを考えるための田内さんの「思考実験」を紹介しました。

この思考実験を経ることで、
「なぜ偽札を作ってはいけないのか」
の理由が分かります。

「紙幣が生活を支えているのではない。
 紙幣を手に入れるために4兄弟が働くことが生活を支えているから」
だと田内さんは言います。
偽札によって貨幣の価値が薄まるのが問題ではなく、
偽札によって納税がバイパスされると、
貨幣を得る必要がなくなる。
すると「人が人のために働く必要」がなくなり、
みんなが支え合って生きていけなくなるから問題なのです。


▼▼▼▼お金というのは「見知らぬ誰かに働いてもらう」権利▼▼▼▼


→P63 
〈僕たちはつい、お金を使ってモノが手に入ると感じてしまう。しかし、このときの「使う」は、「消費」ではない。自分の財布の外を見れば、お金は他の財布へ流れていることに気付く。
 あなたが消費しているのは、お金ではなく、誰かの労働だ。
 お金の向こうには必ず「人」がいる。あなたのために働く人がいる。
 個人にとってのお金の価値とは、将来お金を使ったときに、だれかに働いてもらえることなのだ。
 そして、その反対側には働かされる人が必ず存在する。社会全体にとって、お金(紙幣)を増やしても、価値が増えないのはそのためだ。そして、モノが手に入るのは、誰かが働いているからだ。お金は交渉に使われるだけで、必要不可欠ではない。家の外では必要なことも多いが、家の中では普通は必要ない。〉


、、、人が人ために働く社会の実現のためにお金がある。
お金があることでみんなが支え合って生きていける。

いやいや、モノの消費は違うでしょ。
やっぱり「モノを買うため」でしょ。

違います。
どんな消費財にも、
その向こうには「労働」があります。
農林水産業といった一次産業ですら、
魚を捕る、木や野菜を育て出荷する、
という「労働」なのですから、
いわんや工業製品をや、です。

お金とはだから、
「見知らぬ誰かに働いてもらう権利」あるいは、
「見知らぬ誰かに自分の問題を解決してもらう権利」
と言えるでしょう。
これに(健康な人への)「納税の義務」が生じることで、
人はみな「誰かのために働く義務」を負うので働く。
手にしたお金で「誰かに働いてもらう」。
そうやって「労働が循環すること」が、
お金の機能なのです。


▼▼▼価格と効用が違うことを忘れることから来る不幸▼▼▼

→77~78 
〈価格のことばかり気にしていると、自分にとっての効用が二の次になる。「お買い得」の意味が、効用の高い商品を安く買うことではなく、価格の高い商品を安く買うことだけになる。
 家電量販店の大型テレビの値札に「大特価129,000円!(定価:20万円)」と書いてあればお買い得だと感じるだろう。一方、「大特価129,000円!(定価:オープンプライス)」と定価が書いていないと、お買い得かどうか不安になる。
 大事なのは、元の価格ではないのに。その商品によって自分の生活がどれだけ豊かになるか、なのに。
 これは非常に困った事態だ。
 消費者である僕たちが「定価が価値だ」と信じていると、生産者である僕たちがどんなに効用の高いモノを作っても「お買い得」だと思ってもらえない。
 そうなると、生産者である僕たちが選ぶ道は2つしかない、作ることをやめるか、定価を上げて消費者を騙そうとするからだ。いずれにしても、効用の高い商品を作ろうとする意欲が削がれていく。
 一人一人の消費者が、価格のモノサシを捨てて、自分にとっての効用を増やそうとしないと、生産者も消費者も幸せになれない。
 そもそも、価格と効用はほとんど関係ないのだ。〉

、、、価格と効用が違う、
ということを理解できている人は案外少ないです。

自分も価格と効用を混同させられがちなことを知ってますので、
私は何か割引品を買うとき、
「これが定価だったとしても買うか?」
と自分に聞いて、YESの時しか買わないようにしています。
大切なのは「得した感じ」ではなく、
「払ったのに見合う効用を得られるか」
ということであって、それがブレると消費下手になります。

「バイキングで元を取る」という発想が、
私にはまったく理解できないのですが、
それも価格と効用の話です。
バイキングで「食べたものの原価が払った金額以上」であることで、
「元を取った」と満足する人はまったく合理的ではない、
と昔から私は主張しています。

「自分が一番満足して、
 翌日に体調不良にもならない量と内容」
を食べたときが「効用を最大化」するこということですから、
食べたものの原価が高かろうが低かろうが、
自分が食べたことで店側が得しようが損しようが、
自分の幸福とはまったく関係ないのです。
200%食べた結果、
翌日病院に行けばそもそも価格でも損してますし笑。


▼▼▼お金とは「みんなが働いてみんなが幸せになることを媒介する道具」▼▼▼


→P86~87 
〈そして、この第3話で考えてきたように、モノの価値は、価格ではなく効用だ。効用が僕たちの生活を豊かにしてくれる。
 つまり、みんなが働くことで、みんなが幸せになる。家の中でも外でも変わらない。これこそ本来の「経済」の目的なのだ。
 僕たちの使うお金は、「みんなが働くことで、みんなが幸せになる」という経済の目的を果たすための1つの道具でしかない。
 経済の羅針盤では、「誰かが働いて、モノが作られる」「モノの効用が、誰かを幸せにする」の2つが何より重要だ。お金の話は道具の説明でしかない。家庭内のようなお金を使わない経済では役に立たない。
 (中略)
 さて、このお金という道具は「糸」として機能する。見知らぬ生産者と見知らぬ消費者を結びつけてくれる。しかし、お金は「壁」にもなり得る。見知らぬ生産者と見知らぬ消費者を分断して、相手の存在を隠してしまう。「お金の向こうに人がいる」ことに気づければ、その壁は薄れ消えて、糸の存在が明確になる。〉


、、、お金は「糸」だと田内さんは言います。
人類がお金を発明したことの最大の利点は、
「顔の見えぬ誰かのために働く」ことと、
「顔の見えぬ誰かに働いてもらう」ことが、
互いに可能になったことです。
「貨幣以前の社会」では、
物々交換と「手間貸し」しかありません。

「北の国から」の五郎さんは中ちゃんの木材工場で働き、
中ちゃんは五郎さんに丸太をあげる。
五郎さんは自分の家で焼いた炭を草太兄ちゃんに届け、
草太兄ちゃんは日本酒の一升瓶に搾りたての牛乳を入れて手渡す。

これは「貨幣以前の社会」です。

貨幣を発明したことにより、
一日中工場のラインで半導体の検査をしている工員が、
地球の裏側でケバブを食べながらイスラム教徒が覗いているスマホの、
ひとつの部品となって「役に立っている」ことを、
意識することなく労働に没頭できるようになった。
私はnoteというプラットフォームと、
記事を購入するというシステムのおかげで、
「見知らぬ誰か」が、
私の有料マガジンや有料音源を買って、
家事をしながら、運転をしながら、
楽しんだり有益な知識を得たりすることで役立つことを信じながら、
記事の執筆や録音に没頭することができるようになった。
(有料マガジン、購読してね! 宣伝)

それが貨幣の発明のすごいところです。

ところが「顔が見えない」ことで、
お金は「壁」にもなる。
たとえば本来50万円の価値と効用しかない自動車に、
「定価200万円のところ特別100万円」で売ります、
という中古自動車屋がネットに記事を出す。
それを信じた消費者は情報の非対称性により不利益を被り、
本来50万円の価値の車を100万円で買う。

顔が見えないことにより、
こうしてお金が「壁」にもなる。

お金が「糸」になるためには、
消費者と生産者が共に、
「効用」に目を向けている必要があり、
それはお金の向こうに人がいることを、
意識できているときに可能になるのだ。


▼▼▼▼お金中心の経済学と、人中心の経済学▼▼▼


→P100~101 
〈お金を中心に考える従来の経済学では、ひとりの時間軸の上で因果関係を考える。お金を稼いだからお金が使える。お金を使うためにお金を稼ぐ。現在のあなたが、お金を使って働いてもらえるのは、過去の自分が働いて稼いだからだと考える。
 それに対して、この第1部で考えてきたのは、ある時間において、みんなが生きている空間の中で因果関係を探すことだ。現在のあなたがお金を使えるのは、同じ空間の中に働いてくれる人がいるからだと考える。その人たちが働くことによって、あなたの生活が豊かになる。人中心で考える経済学だ。
 もちろん、お金という発明がもたらした功績は非常に大きい。お金によって、見知らぬ人に働いてもらうことが可能になった。社会を地球規模にまで広げた。多くの人が結びつき、多くの人が支え合う社会を実現してくれた。
 ところが、現代社会においてのお金は、他の人の存在を隠す「壁」のような存在になってしまった。「自分一人の世界を生きている」と感じてしまっている。この壁を取り払って他の人の存在に気づかないと、自分のことだけを考えがちになり、社会全体で支え合うことができずに、結果的にみんなが困ってしまうことになる。〉

、、、お金を中心に考える経済学と、
人を中心に考える経済学。

お金のために人がいるのか、
それとも人のためにお金というものがあるのか。

圧倒的に後者でしょ。

「経済」のルーツになった漢語は、
経世済民という。
「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」
という意味だ。
経済はそもそも、人が豊かになるためにあって、
それは「人が人のために働く」ことにより実現する。

お金の「糸」の効果だ。

ところがお金は「向こう側に人が見えない」ことにより、
「壁」にもなる。
今の社会の問題は、
お金の「壁」の効果ばかりが優位になり、
人が互いに人を信用せず、
財布の中のお金を増やすことばかり考えるようになっているからではないか、
と田内さんは言います。
財布から目を離し、人を見よう、と。

あなたは誰の労働で豊かになっているのか。
あなたの労働は誰を豊かにしているのか。
これを考えようよ、と。
結局のところ私達は、
この世の幸福の総量を増やすために存在しているのだから。
そうじゃないですか、と。


▼▼▼個人の預金が1000兆円、国の借金が1000兆円の意味▼▼▼


→P123~125 
〈預金が増えるトリックが分かると、さっきのニュースの見え方が変わる。
 「日銀が発表した資産循環統計によると、2020年12月末時点の個人と企業の預金残高は1253兆円(内訳は個人955兆円、企業298兆円)と、過去最高を更新した」
 個人と企業の預金が1253兆円ということは、銀行が1253兆円も借金をしているということだ。もちろん、そのほとんどは銀行の金庫の中にはなく、誰かに又貸しされている。
 貸付先は個人や企業だけでなく、政府の場合もある。このとき、債券の購入という方法でお金を貸すこともある。実際に、銀行は企業や政府の発行する債券(それぞれ、社債、国債と呼ばれる)を大量に買っている。
 さらに、預金だけでなく、保険の積立金などの預金と同等のものも存在する。これらすべてを合わせると、僕たちが預けているお金は1800兆円ほどになる。もちろん、その裏にある借金の合計額も約1800兆円存在する。
 個人や企業の預金残高を見て日本がお金持ちの国だというのは、全くの見当違いだ。預金が多いのは、日本人が勤勉だからでも、投資をしないからでもない。借金が多いからだ。
 日本の中で、最も借金を膨らましているのは日本政府で、その額は1000兆円を超える。日本政府が抱える莫大な借金の話を誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。中には、強い怒りを覚えている人もいるかもしれない。
 「自分たちは頑張って働いて預金を貯めた。それなのに政府は借金を増やしている。政府が悪いのに、どうして自分たちが負担する必要があるんだ!」
 一見すると、これは童話の「アリとキリギリス」の話に似ている。「働かなかったキリギリスのために、どうして頑張って蓄えた食料を渡さないといけないんだ!」と怒るアリの感覚に似ている。
 しかし、政府の借金の話は「アリとキリギリス」とは全然違う。日本政府の借金が増えたからこそ、個人や企業の預金がここまで増えているのだから。
 こう考えてもいい。もし、政府が借金を1000兆円まで膨らませなかったら、足りないお金は税金で徴収していた。その額は1000兆円。僕たちの預金は、今よりも1000兆円少なかった。
 日本政府の借金を肯定したいわけではない。しかし、僕たちの貯め込んだ預金と政府の抱える借金を切り離して考えると、不要な軋轢を生んでしまう。アリとキリギリスのように、国民と政府が反目すべきではない。〉


、、、預金というのは「誰かの借金」ということになります。
お金が「誰かに働いてもらう権利」だとすると、
国民が合計1800兆円預金しているということは、
国民は「未来において1800兆円分誰かに働いてもらう権利」
を有しているということになる。

じゃあ誰がその義務を請け負っているかといと、
銀行の借金なのだけど、
銀行はその借金を様々な債権として金融市場を流通させる。
その最も大口の債権が「国債」で、
それが1000兆円を超えている。

日本政府が借金をしたから、
個人の預金が増えた、と田内さんが言うのはそういうことで、
じゃあ1000兆円を放置して良いのか、
それともバランスすべきか、というのは経済学の難しい議論になる。

私もマクロ経済学者の弟に聞いてみたりもしますが、
明確な「定説」というのはどうやらなさそうです。

本書を読むと田内さんはMMT(現代貨幣理論)に基づき、
国の債務はどこまでも増やして良い、と考えるけれど、
財務省や主流派は「財政均衡」を唱え、
ゆえに緊縮財政を主張しています。

私もちなみに、これについては単純に分かりません。
ノーベル賞クラスの経済学者の間でも、
議論はぱっくり二分しているようですから、
私などに分かるわけがない、というのが相場でしょう。

逆に分かったら怖い。

ただ、田内さんの論は、
ケインズ主義にかなり近いように私には感じられ、
とても大切な視点のように思われます。

このあたりのことは『日本病』という本で、
永濱利廣という人が解説していて、
納得しました。


▼▼▼株の売買の99%は転売行為▼▼▼


→P134~138 
〈理由はどうあれ、日本には大量の預金があるのは間違いない。その大量に積み上がった預金を前に、投資を進める人たちがいる。
 「銀行にお金を眠らせたままにしているのはもったいない。有望な会社の株に投資をした方がいい」
 もっともな意見にも聞こえるが、受け入れにくいと感じる人もいるだろう。
 「株の上げ下げを当てるなんて、ただのギャンブルじゃないの? そんなことに時間とお金を使うなんてもったいない」
 しかし、その直感を言葉に出そうものなら、次のように畳み掛けられる。
 「株とギャンブルは違う。株に投資をすれば、会社の成長にお金が使われる。設備投資や新規雇用が増えることで、会社は大きくなるし、景気も良くなる」
 どこかの本に書いてあるような話を聞かされる。この話はもちろん正しい。だが、当てはまるのは1%以下だけだ。あなたの直感の方がよっぽど正しい。年間の株式売買のほとんどが、ただの転売だ。
 つまり株式投資の99%はギャンブルだ。
 株式の転売は、コンサートチケットの転売に似ている。
 たとえばあなたの大好きな歌手がコンサートを開き、全席指定の1万円の前売り券が明日発売される。
 あなたがチケットを買えば、そのお金はコンサートの主催者に流れていく。このお金があるから、、コンサートに必要な機材や会場を確保することができる。あなたの応援する歌手にも支払われるし、所属する会社の成長にもお金が使われる。
 チケット発売当日、人気のチケットは5分で完売した。残念ながらあなたはチケットを買えなかった。意気消沈のあなたの元に「3万円でチケットを譲るよ」と、チケットの転売を持ちかける人が現れる。どうしてもコンサートに行きたいあなたは、3万円支払ってチケットを手に入れた。
 正規に販売されたチケットと転売チケットの違いは、価格だけではない。決定的に違うのは、お金が流れていく先だ。あなたの支払った3万円は、応援している歌手や会社には流れていかない。チケットを転売した人に流れ、その人の生活に使われる。
 株に投資するときも同じことが起きている。ほとんどの人は転売されているチケットを買う。つまり、ほとんどのお金は応援したい会社には流れていないのだ。
 2020年の証券取引所(日本取引所グループ傘下の証券取引所)で、の日本株の年間売買高は744兆円。一方で、証券取引所を通して、会社が株を発行して調達した資金は2兆円にも満たない。コンサートの例に当てはめると、主催者が売ったチケットはたったの2兆円で、742兆円は転売されたチケットの取引量というわけだ。
 株が会社から新たに発行されるときに、株を購入する人がいる。その人のお金だけが会社に流れて、その会社の成長に使われる。それ以外の取引はすべてが転売だ。
 コンサートチケットの転売はコンサート当日までが勝負だが、株というチケットは、会社がつぶれるまで転売され続ける。
 もちろん、株式市場が無意味だと言いたいわけではない。もし株式市場で株を転売できなかったら、会社が株を発行しても購入しようと思う人が減ってしまう。売ることができるから、会社が株を発行しやすくなっている。
 でも、あなたが会社に投資したと思っているそのお金は、株を転売してくれた人の生活に使われ、会社の成長に1円も使われていないのは事実だ。
 そして、この転売はただのギャンブルでしかない。〉

、、、株式投資は本質的にギャンブルです。
株式投資で生計を立てるのは、
パチンコで生計を立てるのと、
あまり変わらない。

これが私達の直観なのですが、
「いや、株式ってのは経済にとって大切で……」
というお決まりの反論が聞こえてくる。
失礼な!一緒にするな!と。

だけど、元ゴールドマンサックスのトレーダーの田内さんはこう言う。

その主張はたしかに正しい。

ただし1%だけね、と。

つまり99%はやはりギャンブルなのです。
株式で売買された額の1%未満しか、
「調達されたお金で将来への投資をする」
という大義名分のために使われていないのですから。

誤解しないで欲しいのは転売ヤーやパチプロにも、
きっと何かしらの意義があると私は思っているということです。
転売ヤーや「その定価は適正価格よりも低いですよ」ということを教えてくれる役割、
パチプロはパチンコ雑誌に攻略法を紹介して夢を与える役割がある。
またプロゲーマーにも「人に夢を与える」という意義があるように、
投資家にもきっと意義はあるのでしょう。
私がめちゃくちゃ参考にしている哲学者の、
ナシーム・ニコラス・タレブの本業は投資家で、
彼は投資という営みの中から人生のヒューリスティックを取りだし、
それを世間に紹介している。
同じく投資家の橘玲さんも同様です。

でも、頭の悪い私には正直、
彼らの本業の株式投資自体が何の価値を生んでいるか、
まったく分からない。
何度説明されても分からない。
何の価値を生んでいるか自分でも分からないような仕事は、
きっとやめておいたほうが良いです。
与沢翼を目指すのはやめましょう。
私は少なくとも意義を感じられない。

意義を感じられる人だけがやったら良いと思います。


▼▼▼株式でのゲームは投資ではなく投機だ▼▼▼


→P138~140 
〈僕たちが投資だと信じているものの多くは、転売を目的にしている「投機」と呼ばれるものだ。株にしても為替にしても、安く買ったものを高く売って、転売で儲けることを目的にすることが多い。転売を目的にワインやコンサートチケットを買うのも投機だ。
 投機で購入する人は、価格の値上がりによって儲ける。価格が値上がりするのは、樹木に果実が育つように何かが成長しているわけではない。コンサートチケットの質が良かろうと悪かろうと、高く買わせることができれば儲けられる。
 あなたがコンサートチケットに3万円を払わされたように、高く売って儲けた人の反対側には、高い価格で買わされた人が存在する。安く買うときにも、反対側には安く売らされた人がいる。投機という転売がギャンルルだというのは、そういう意味だ。果実を実らせて分け合うのではなく、増えることのないお金を参加者の間で奪い合っているのだ。
 「日経平均株価が上がっている。経済が成長している」と喜ぶ人たちがいる。彼らが株価だけを見て喜んでいるなら、チケットを高く売って喜んでいる人と大差ない。
 人気のコンサートチケットが転売市場で高騰するように、株を買いたがる人が増えると株価が上昇する。別に、みんなの生活が豊かになっているわけではない。株を高く売れた人が喜ぶだけだ。
 経済の羅針盤に立ち返ると、ここでも生活を豊かにするのは、株価という会社の価格ではなく、会社が作り出すモノから得られる効用だと気づく。
 たとえば、鉄道会社は鉄道を運行することで僕たちに効用をもたらす。この効用を高めているのは、鉄道会社で働く人たちに他ならない。決して、鉄道会社の株をたくさん買って、株価を上げた人ではない。彼らはただ株券を握りしめて座っていただけだ。(*ある程度の株式を取得した上で会社に積極的な提言を行う投資家や、大部分の株を購入して、会社ごと買収する投資家も存在する。彼らは、もちろんただ座っているとは言えず、会社がもたらす効用を変えようとしている)
 僕たちの生活にとって重要なのは、会社のもたらす効用だ。効用が増えれば、会社が儲かり、株主への配当が増える。その結果として株価が上がることがある。それは喜ばしい株価の上昇だ。しかしそれは結果であって、経済の目的ではない。
 株に限らず、投機が過熱すると価格が上昇する。その価格上昇は、他人に高く買わせられるということでしかない。効用を増やしてはいないのだ。〉

、、、株式投資のほとんどは投資でなく「投機」だ、
というのは本当にそうだと思います。
ゴールドマンサックスでトレーダーをしていた田内さんが言うのですから、
そのとおりなのでしょう。
ひとことで「博打」です。
博打で生活できる人も中にはいますが、
博打自体は価値を生みません。

以上です。

しかし「株式市場」という仕組みは大切です。
「金はあるけど夢がない人」と、
「夢があるけど金がない人」をマッチングさせる仕組みが株式市場です。
大航海時代のイタリアの港町で、
株式市場の原型が始まったと言われていて、
大きなリスクと人員を抱えて一攫千金を狙う巨大帆船に、
パトロンが金を出し、利益の配当を得ます。
運良くアフリカ大陸から帰ってこられれば、
巨大帆船は黄金や象牙や香辛料など、
投資したお金の何倍もの価値をたずさえて寄港する。
それをパトロンと乗組員と船長で山分けする、というわけです。

現代の巨大帆船が「株式会社」です。

夢はあるが金がなかった90年代のジェフ・ベゾスに、
金はあるが夢がない大金持ちが投資した。
そのお金でベゾスは巨大な倉庫をぶったてて、
「アマゾン・ドット・コム」というウェブサイトを作った。

30年経った今、
そのときに投資した100万ドルは、
100億ドルぐらいになってるんじゃないでしょうか。
知らんけど。
株式市場というのはそういう仕組みです。
このときに本当に「価値の創出」に関与しているのは、
「コンマ1秒の世界で安いときに買い、
 コンマ1秒の世界で高いときに売る」
という勝負をしているトレーダーでないのは明らかでしょう。

コカ・コーラの株式を、
50年以上にもわたって保有している、
ウォーレン・バフェットや、
損得関係なしに「世界をよくすると自分が信じる企業」に、
投資し続けるジョージ・ソロスのような投資方法以外は、
「コンサートのチケット転売と同じ」
という田内さんの指摘はまったくその通りです。


▼▼▼投資で未来を設計し、消費で未来を選択する▼▼▼


→P148~150 
〈投資とは未来の生活を設計することだ。生活がより豊かになるために何が必要なのかを考え、その研究開発や生産準備のためにお金を流す。投資によって、未来の選択肢が増える。
 あとは消費者の選択に委ねられる。数ある選択肢の中から、自分の生活を豊かにするモノの生産に、消費者はお金を流す。そのお金は生産活動だけでなく、さらなる研究開発にも流れ、品質や性能が向上していく。
 この投資と消費の両輪によって、世界は未来へと進んでいる。貨幣経済においては、お金が流れないことには僕たちの労働がつながらず、モノが生み出されない。僕たちの生活を豊かにする効用も生み出されない。
 だから、銀行の金庫には、正面だけでなく裏の扉もついているのだ。預金を引き出すだけでなく、銀行の貸し出しによっても、お金が流れるしくみになっている。
 くどいようだが、お金はただ流れるだけだ。情報産業に注ぎ込まれたのは、お金ではなく、膨大な労働だ。僕たちが流している投資や消費のお金が、労働の配分を決めていて、その配分によって未来が作られている。
 もしも、20世紀に引き続いて自動車や電化製品に投資や消費を続けていたら、現在のような情報技術の便利さは手にしていなかっただろう。情報技術に多くのお金を流したことがベストだったとは限らない。もっと住みやすい世界になっていたかもしれない。
 いずれにせよ、労働が注ぎ込まれることで新たな価値(効用)が生まれ、より快適で便利な生活を送れるようになっている。20年前と今の生活を比べれば明らかだ。〉


、、、じゃあ「投資」って意味がないのか。
ないわけがない。
ありまくりです。
「投資」は、未来を創るからです。

誰かがテスラ自動車に投資すると、
その投資は「自動車の電気化」とか、
「化石燃料に依存しない社会の実現」のために、
人々が労働する。頭脳が使われ、
イノベーションが生まれる。

90年代にインターネット産業のベンチャーになされた投資が、
インターネットに人生をかける若者の労働を生む。
その労働がインターネット産業を作った。

こうして人は投資によって未来を設計します。
繰り返しますがここでいう投資は、
転売目的の投機とは違います。

次に、消費によって未来を選択するとはどういうことか。

スーパーに野菜が並んでいる。
1.たくさんの化石燃料を使って海外で作られた大量生産の野菜
2.あまり輸送コストをかけない地産地消の野菜

1を選ぶことは、
化石燃料に依存し続ける地球を選ぶということで、
2を選ぶことは、
そうでない未来の可能性を選ぶということです。

2を選ぶ人が増えれば、
社会の形は変わっていきます。
2が売れると分かれば仕入れ方も変わるから、
2が儲かるというふうになります。
農業をする若者も増えます。
バカみたいな燃料費をかけて地球の裏側から生鮮食品を買う、
という商慣行は衰退します。

「消費が投票だ」というのは、
こういう意味においてです。


▼▼▼日本政府の1,000兆円の借金の謎が本書の執筆動機▼▼▼


→P215~216 
〈膨大な借金を抱えているはずなのに、なぜか日本は破産していない。
 本書の冒頭で紹介した「政府の借金の謎」に僕が出会ったのは2010年だった。借金を膨らませすぎたギリシャ政府が財政破綻しそうになり、ギリシャ国債は大暴落。ヨーロッパの金融市場を混乱させた「ギリシャ危機」が起きていた。
 ゴールドマン・サックスで日本国際のトレーディングをしていた僕のところには、海外の様々なヘッジファンドから連日のように取引の問い合わせがあった。
 「膨大な借金を抱えている日本が財政破綻しないはずがない。ギリシャの次は日本の番だ」。そう考える彼らは、日本国債の空売りで大儲けしようとした。
 テレビの中の専門家たちも「このままでは、数年以内に銀行が日本国債を買い支えられなくなる(銀行が政府に貸すお金が足りなくなる)。日本は財政破綻してしまう」と警告していた。
 ゴールドマン・サックスの内部でも大きな問題になった。紙クズ同然になるかもしれない日本国債を取引し続けていて大丈夫か、と。
 僕がたどり着いたのは「日本は破産しないし、国債が暴落することはない」という結論だった。事実、暴落は起きず、ヘッジファンドのほとんどが大損して去って行った。
 そのときに「お金とは何か」、「借金とは何か」をとことん考えたことが本書の原点になっている。たとえば第5話で書いたように預金は借金の裏返しになっているから、専門家の警告したように政府に貸すお金がなくなる事態は、10年経った今でも起きていない。
 こうした金融や経済の話になると専門的な話になりがちだが、どんな問題も本質はシンプルだ。この政府の借金の謎を解くために僕が考えたことも至ってシンプルだった。これまで何度も出てきた話だ。
 「働いているのは誰なんだ?」〉

、、、日本政府は1000兆円も借金していて、
それは財務破綻したイタリアやギリシャや、
90年代の韓国と同じ状況かもっと「悪い」のに、
なぜ日本は財政破綻しないのか。

誰でも疑問に思うことです。

マクロ経済学者の弟に聞いてみると一言、
「日本国債を買ってるのが日本国民だから」でした。
日本は最大の債務国なのだけど、
最大の債権国でもあって、
日本は日本に借金しているから大丈夫なのだ、と。

多分(間違っているかもしれないが)、
これは田内さんの「働いているのは誰なんだ?」
と同じような話であるように私には思われます。

1000兆円の借金は何に使われたか。

道路や空港や国民の医療費や自衛隊の兵器や大学や……
に使われたし、今も使われ続けています。
その借金の債権者は「国債」という金融商品を通し、
多くは日本国民が所有しています。
この債権者が日本の外にあると、
第二次大戦直前のドイツと同じように、
ハイパーインフレが起きて国は破綻する、
と田内さんは指摘しています。


▼▼▼人を豊かにするのは常に誰かの労働▼▼▼


→P217~218 
〈現在の僕たちが得られるモノやサービスが増えるのは、予算が増えるからでも借金による将来の負担が増えるからでもない。現在の誰かの労働が増えるからだ。自分の労働が増えていなくても、必ず、誰かの労働が増えている。
 給付金のように政府がお金をばらまく場合も同じだ。僕たちがその給付金でモノを手に入れることができるのは、誰かが働いてモノを生産してくれるからだ。
 つまり、政府の予算の配分とは、僕たちの労働の配分を表している。多くの予算がつけられることで、多くの労働が投入される。
 戦時下の国の政府が軍事関連の予算を大幅に増やすとき、生活が苦しくなるのは、軍事関係に多くの労働力を奪われるからだ。お金だけを見ているとその事実に気づくことができない。〉


、、、政府の給付金を預金しても、
「価値」は増えないし労働は生まれません。
給付金でモノやサービスを買うときに、
誰かが誰かのために働きます。
働いた人は得たお金で、
他のサービスを買って誰かに働いてもらう。
人が人のために働けば働くほど、
社会は全体として豊かになります。

これを媒介するためにお金があるのだけど、
何度も言うように財布の中身だけを見ていては、
自分の預金額だけを見ていては、
社会の全体像が見えなくなる。
お金の向こうに、ちゃんと人を見ようよ、
田内さんが言いたいのはそういうことです。


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