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ユーモアと仮面と人生と



芸術には、(中略)要するに、
わたしたちから実在を覆い隠しているすべてのものを遠ざけ、
そうしてわたしたちを実在そのものに直面させること以外の目的はない。
  ―――『笑い』ベルクソン 207頁


▼▼▼ユーモア礼賛▼▼▼


『さようなら、すべてのお笑い』という記事を書いた。

記事のタイトル以外読まない人からすると、
僕がユーモアと決別したように読めるかもしれないが、
そういう話ではない。

「テレビのお笑い」とはしばらくサヨナラしよう、
という、しばしの惜別の記事だ。

僕はむしろ、ユーモア礼賛主義者なのだ。

ユーモアほど大切なものはこの世にないと思っている。

しかし、ユーモアほど言語化が難しいものはなく、
古今東西、「笑い」とか「ユーモア」について書かれたものは、
実はあまり多くはない。
それはきっと言語化が難しいからだ。

哲学者が笑いについて書くとき、
十中八九、ベルクソンの『笑い』が引用されるが、
その理由は他にほとんど存在しないからだ。
笑いについてのほぼ唯一の古典なのだ。

それぐらい、人類は笑いを語ってこなかった。
いや、語ってこられなかった。
ヴィトゲンシュタインは言った。
語り得ぬものについては沈黙せねばならない。

喜びや愛や「真・善・美」について、
人間は何千年も語り合ってきたのだが、
「笑い」について、
人は哲学的に考察してこられなかったのだ。

それがなぜか、
ということは獣医師の僕なりに解剖学的に説明すると、
こういうことになる。

人間(哺乳類)の脳には古い部分と新しい部分がある。
脳幹とか海馬とかは最も古い部分で、
次に視床下部とかを含む「辺縁系」があり、
最後に「新皮質」と言われる最も新しい部分がある。
古い部分ほど「生理的」なものを、
新しい部分ほど「論理的」なものを取り扱う。
人間は新皮質が異常に発達したので、
生物界のヘゲモニーを握った、と良く説明される。

ダニエル・カーネマンの、
「システム1」「システム2」でいうと、
システム1を古い脳が、
システム2を新しい脳が担う。
だから行動経済学は、
システム1を刺激することで人を誘導する。
論理は生理に勝てないのだ。
「理屈」は食欲や性欲に勝てない。
むしろ理屈はシステム1の言い訳に使われる。

「まぁ、めちゃくちゃ食べたとは言っても、
 大食いファイターに比べれば少ない方だし。
 あと、大食いの人でも痩せてる人はいるしね。
 あと、明日から量を減らせば良いしね。
 さらには、今日けっこう歩いたしね。
 あと、体重計は壊れてるかもしれないしね」

「笑い」というのは、
おそらく脳の「古い部分」と結びついている。
もちろん笑いを考えるのは新皮質だ。
お笑い芸人がネタを書いているとき、
PET検査とかをやれば、
前頭葉に血液が集まりまくっているのが観察されるはずだ。
誰かを笑わせるのは「新皮質」の作用だ。

しかし、「笑う側」は、
限りなく生理的に笑っている。
「笑い」は古い脳の作用に近い。

音楽と笑いは、
人類史の黎明期、太古の昔から存在してきた。
人間はだから、「笑い」を理屈で説明できない。
音楽に合わせて身体が動き出す理由を説明できないのと同じように。


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