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なぜタイで建築を学ぶのか?

タイに来て2週間が経ちます。自分の思考を整理するために、またこれを読むかもしれない、アジアに留学する建築学生のひとつの手がかりになるように、このnoteを書くことにしました。(それにしてはダラダラ書きます)

M1の一年間、様々な授業や就活、研究室のプロジェクトや雑誌の編集長(https://www.traverse-architecture.com/)など、いろんな体験をさせてもらい、ありがたくも忙しく過ごしていました。
一方で、設計の数が学部の頃より減ったり、その精度が下がっていることを自覚していました。京大の同期がヨーロッパでたくさんの経験をしたり、卒制で出会った他大の仲間たちがプロジェクトを自分で創りあげたり、就職して成長しているのを見て、遅れと、それによる焦りを感じていました。
「俺は置いてかれてるのでは?」という不安を感じながらも、多忙な日々の中でそれを熟考することから逃げていました。

ジャカルタ、大雨のカンポン

きっかけのひとつ目はM1の11月。研究室のワークショップで訪れたジャカルタでした。
訪れたのは、カンポンと呼ばれる都市集落のいくつか。スラムと言われることもあるけれど、コミュニティがしっかりと組織されている地域です。そこで目にしたのは、全てが生きている空間。生きることと住むこと、つくることの距離が近い光景。そしてその社会性・空間性がそこに生きる人自らによってオーガナイズされている。
本当に「人間の生きるための空間」とはなんだろうか、そして、いわばその対極、計画する立場に居る建築家という職能は、どういったアプローチができるだろうか、と考えるようになりました。

渋谷

転機のふたつ目はM1の2月。
大手組織設計の一次選考で落ちた僕はアトリエ就職に腹をくくり、ずっと気になっていたあるアトリエにインターンに行きました。
なぜこれほど優秀な人たちがこれほど素晴らしいことを考えているのに、これほど苦しい生活をしているのだろう?というのが正直な感想でした。
そしてそれは、ひとつのアトリエ内に起因することではなく、社会における建築家の振る舞い方、あるいはその背後の建築界のシステム全体の問題だと。
こんなこと学部から考えている人はたくさん居るんだろうけれど、それが初めて実感として表れ、このまま普通に無難に1年を過ごしてアトリエに行ったら、ただ社会に飲み込まれてしまうのでは?と危機感を持つようになりました。

インターンの合間に飲みに行ったある友達は、この問題の解決策のひとつとして、働きながら起業をしていました。
自分の強みと社会の不足を正確に把握して、自分なりに積極的に道を拓く彼を見て心から尊敬しつつ、じゃあ俺は何を持っているんだろう??俺の武器は何か??さらにはどういう態度で、建築と、その先にある社会に向き合うのか??と考えるようになりました。

そして決定的だったのが、退勤後に悶々としながら散歩した夜の渋谷の街でした。
飲み屋街、罵声や客引きの声が飛び交い、酔いつぶれた人が路上に横たわる。人間のだらしない、みっともない部分が露出する街。でも、だからこそ生き生きと、あるいは愛おしく感じました。
ミヤシタパークに象徴される、キレイできらきらした世界観。デザインは洗練されていてさすがだな、と思う一方で、それは明らかに使う人間を限定している、開かれているようで実は強力な線が引かれている、そういう感触が否めませんでした。デザインすることは、同時に社会的な線を引くことだ、と。じゃあ線を引かない方がいいかというと、僕たちデザイナーにとってそれは不可能。
誰を対象に"Public"をつくるのか?そもそも"Public"とは何か?それが自分の命題になりつつありました。

「誰のために建築を創るのか?」という問いと、「建築界の社会システムにどうアプローチできるか?」という大きな問い、さらに「俺の強みは何か?」という超個人的な問い。これらをリンクさせたのがジャカルタでの記憶でした。

バンコク、どこかのマーケット

ヨーロッパで「正統」の建築を学ぶことは勿論素晴らしいことだけれど、日本の"Public"を考えるときに、見るべきは東南アジアではないか?という直感がありました。ごく限られた富裕層や知識人のための建築よりも、世界の大半を担う「そうでないところ」を相手にしたい。この思いは、もしかしたら住宅街を相手にした卒制の時からあったのかもしれません。(https://twitter.com/KankiLab/status/1496466174670176262
ともかく、逆張りといえばその通りですが、「ボトムアップの"Public"を学びたい」、これが一番単純な説明になると思います。

そこから、休学してインターンあるいは個人留学、もしくは交換留学、という3つの選択肢を考え始めました。
その中で、留学して学生という立場を得た方がフラフラしやすい、いろんな場所へ入りやすい、という教授の助言から、留学を決断します。さらに、手続きや奨学金獲得の難易度が大幅に違うことから、休学せずに大学の交換留学を選びました。
正直、ここの決断に一番迷いました。海外インターンをしている友達の様子を見ていると、本当に洗練された環境で腕を磨いているな、と感じます。休学した方が大学のしがらみから離れ、自分の力で生きる決断力のようなものはより得られる、という気もします。
一方で僕自身、今は授業や修論リサーチに取り組みつつ週1日インターンさせてもらえることになり、広く浅くいろいろな経験ができるのは留学なのかな、と感じます。また、他分野の友人ができることも留学の大きな魅力だと思います。

行き先は、最初は、本当に正直に言うと東南アジアならどこでもよかった。
ですが、タイ人の先輩が研究している、タイのスラム改善プロジェクトに興味があったこと、先生の知り合いが現地にいて色々情報をもらえそうなこと、そしてタイに行ったことがなかったので留学先をタイに決めました。その中で、国際交流と建築教育が盛んなタマサート大学を選びました。
コネが多いというのは、主に生活面で本当に助かります。できることの幅が全く違うし、ここはヘンに尖らなくて良かったな、と思います。
調べているうちに、タイではボトムアップアプローチ、言い換えるとデザインする人と使う人のパワーバランス、が長く考えられている事が分かってきて、まさに自分の命題に近いな、と感じたのも大きな理由でした。

東南アジアに飛ぶ決断が3月初め。学内の留学出願締め切りが3月末だったので、方針の決定から書類作成、TOEFL受験まで、この1ヶ月は特にバタバタしました。いろんな人の協力で今があります。

THE COMMONS

またnoteを書こうと思いますが、正直、あまり先例のない東南アジアへの留学は大変です。英語が通じない人が大半だし、それ故に手続きも色々と苦労します。
ただ、皆がヨーロッパに行くなかでアジアへ飛ぶ、それだけでも大きな価値なのかな、と今では感じています。「自分の強み」とは、そのまま「どういう視点でものを語れるか、あるいはつくれるか」ということで、その視座を手探りしているのかな、と。逆張り精神だけではない何かがある、と思い込むようにしています。

知り合いのおっちゃん(ええ人です)には「なんで遅れてる方に行くねん」と言われました。確かに、建築の技術や交通・生活インフラなど、日本のほうが進んでいる部分があるな、とは実際生きていて感じます。
でも、ジャカルタで感じた、「アジアの建築の活路はここにあるのでは?」という直感は実感に変わってきています。何を以て進んでいる、遅れていると言うのか、その物差しをずっと探し続けるんだろうな、と思いながらタイ料理を食べる毎日です。

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