創造性は「アメ」と「ムチ」で引き出せるか?

創造性を高めるのに、アメは効かない

創造性をより高めるためには「アメ」と「ムチ」のどちらが有効なのか、という問題はギリシア時代から議論されてきました。この問題を考えるために、1940〜50年代に心理学者のカール・ドゥンカーが提示した「ろうそく問題」を取り上げてみましょう。まず下の図を見て下さい。

「ろうそく問題」とは、テーブルの上にろうそくが垂れない様にろうそくを壁に着ける方法を考えてほしい、というものです。この問題を与えられた成人の多くは、だいたい7~9分程度で、下図のアイデアに思い至ることになります。

つまり、画鋲を入れているトレーを「画鋲入れ」から「ろうそくの土台」へと転用するという着想を得ないと解けないということなのですが、この発想の転換がなかなか出来ないんですね。一度「用途」を規定しまうと、なかなか人はその認識から自由になれないということで、この傾向をドンカーは「機能認識の固着」と名付けました。

考えてみれば、例えばマジックインキなどは、ガラス製の瓶に入れられたフェルトに揮発油がしみ込んでいるので、物性としてはアルコールランプとほとんど同じです。

で、実際に暗闇ではこれを立派にランプとして使うことが可能なわけですが、なかなか普通の人にはそういう発想の転換が出来ない、ということをこの実験を通じてドンカーは証明しました。

で、ドンカーの実験から17年を経て、ニューヨーク大学のグラックスバーグは、この「ろうそく問題」を、人間の若干異なる側面を明らかにするための実験に用い、そして興味深い結果を得ています。彼は、この問題を被験者に与える際、「早く解けた人には報酬を与える」と約束することで、アイデアを得るまでにかかる時間は際立って「長くなる」ことを明らかにしています。

1962年に行われた実験では、平均で3~4分ほど長くかかったという結果が出ています。つまり、報酬を与えることによって、創造的に問題を解決する能力は向上するどころか、むしろ低下してしまうということです。

報酬は創造性を低下させる

実は、教育心理学の世界では、この他数多くの実験から、報酬、とくに「予告された」報酬は、人間の創造的な問題解決能力を著しく毀損することが分かっています。有名どころでは例えばデシ[1]、コストナー、ライアンが行った研究でしょう[2]

彼らは、それまでに行われてきた、報酬が学習に与える影響についての128件の研究についてのメタ分析を行い、報酬が活動の従事/遂行/結果のいずれに伴うものであるとしても、予告された報酬は、既に面白いと思って取り組んでいる活動に対しての内発的同機付けを低下させる、という結論を得ています。

デシの研究からは、報酬を約束された被験者のパフォーマンスは低下し、予想しうる精神面での損失を最小限に抑えようとしたり、あるいは出来高払いの発想で行動したりする様になることがわかっています。

つまり、質の高いものを生み出すために出来るだけ努力しようということではなく、最も少ない努力で最も多くの報酬を得られるために何でもやるようになるわけです。加えて、選択の余地が与えられれば、そのタスクを遂行することで自分のスキルや知識を高められる様な挑戦や機会を与えてくれる課題ではなく、最も報酬が多くもらえる課題を選ぶようになります。

これらの実験結果は、通常ビジネスの世界で常識として行われている報酬政策が、意味がないどころかむしろ組織の創造性を低下させていることを示唆しています。つまり「アメ」は組織の創造性を高める上では意味がないどころか、むしろ害悪を及ぼしている、ということです。

経営科学と人文科学の断絶

報酬が人の創造性を低下させることは人文科学における様々な研究から明らかになっています。ところが不思議なことに、経営学の世界ではいまだに報酬が個人の創造性を高めるという立場を取る論者が少なくありません。

例えばハーバード・ビジネス・スクールやロンドン・ビジネス・スクールで教鞭をとっていたゲイリー・ハメル[4]は、イノベーションに関連する論文や著書の中でたびたび「桁外れの報酬」による効果について言及しています。

起業家は小物を狙ったりしない。彼らが狙うのは新興企業の株式である。革新的なビジネスと起業家のエネルギーこそ、革命の時代には頼りになる「資本」なのだ。アイデア資本家が、株主と同等の報酬を求めるのは当然だろう。彼らは、確かに短期間で大きな成功を狙うが、同時に自分の貢献に見合う報酬を要求するのだ。(中略)ビジネスで過去の延長としては考えられない斬新なイノベーションをなしとげたスタッフには、手厚く報いなければならない。斬新なイノベーションを実行すれば、会社がかならず手厚く報いることをスタッフに明確に知らしめる必要がある

ゲイリー・ハメル「リーディングザレボリューション」p360より 

報酬政策に関するこのようなコンセプトに関して、ハメルがたびたび「お手本」として取りあげていたのがエンロン[5]でした[6]

ハメルは、上述した同書においてこの様に書いています。曰く

年輪を重ねた革命家を生み出すためには、企業は報酬を、役職、肩書き、上下関係などから切り離して決めなければならない。実際にエンロンではそうしている。同社のなかにはアシスタントでも取締役を上回る収入を得ている者がいるのだ。

ゲイリー・ハメル「リーディングザレボリューション」p364より  

しかし、現在の我々は、エンロンや投資銀行で起こったこと、あるいは現在のITベンチャーで起こっていることが、まさにデシの指摘する「本当に価値あると思うことではなく、手っ取り早く莫大な報酬が得られる仕事を選ぶ様になる」という事態であったこと既に知っています。

エンロンがロケットの様に上昇する株価を謳歌していたのは2000年代の初頭で、ハメルによる上記の論考が出されたのもその時期のことです。しかし、既にその時点でデシを初めとした学習心理学者たちの報酬に関する研究結果は数十年来のあいだ公にされており、少なくとも「予告された報酬」が、様々な面でその報酬の対象となる人々の創造性や健全な動機を破壊することは常識となっていました。 

こういった初歩的な人文科学あるいは社会科学領域における知見が、社会のあり様についてもっとも大きな影響力をもつ企業に対して発言力を有する経営科学の領域に殆ど活かされていないという事実には、残念という感慨を通り越して困惑させられます。

ハメルが教鞭をとっていたハーバード・ビジネス・スクールやロンドン・ビジネス・スクールは高額の学費をとることで知られていますが、高い学費を払わされた挙げ句、他分野ではとっくのとうに誤りであることが明らかにされている知見を学ばされた学生はたまったものではないでしょう。

人に創造性を発揮させようとした場合、報酬(特に予告された報酬)は、効果がないどころではなく、むしろ人や組織の創造性を破壊してしまう、ということです。

創造性を高めるのに、ムチも効かない

人に創造性を発揮させようとした場合、報酬=アメはむしろ逆効果になる。では一方の「ムチ」はどうなのでしょうか?結論から言えば、こちらも心理学の知見からはどうも分が悪いようです。

もともと脳には、確実なものと不確実なものをバランスさせる一種のアカウンティングシステムという側面があります。何かにチャレンジするというのは不確実な行為ですからこれをバランスさせるためには「確実な何か」が必要になります。ここで問題になって来るのが「セキュアベース」という概念です。

幼児の発達過程において、幼児が未知の領域を探索するには、心理的なセキュアベースが必要になる、という説を唱えたのはイギリスの心理学者、ジョン・ボウルビイ[7]です。彼は、幼児が保護者に示す親愛の情、そこから切り離されまいとする感情を「愛着=アタッチメント」と名付けました。そして、そのような愛着を寄せられる保護者が、幼児の心理的なセキュアベースとなり、これがあるからこそ、幼児は未知の世界を思う存分探索出来る、という説を主張したのです。

これを援用して考えてみれば、一度大きな失敗をして×印がついてしまうと会社の中で出世できないという考え方が支配的な日本よりも、どんどん転職・起業して失敗したらまたチャレンジすればいいといった考え方が支配的な米国の方が、セキュアベースがより強固であり、であればこそ幼児と同じように人は未知の世界へと思う存分挑戦できるのだ、という考え方が導き出されることになります。 

つまり、人が創造性を発揮してリスクを冒すためには「アメ」も「ムチ」も有効ではなく、その様な挑戦が許される風土が必要だということであり、更にその様な風土の中で人が敢えてリスクを冒すのは「アメ」が欲しいからではなく、「ムチ」が怖いからでもなく、ただ単に「自分がそうしたいから」ということです。

なぜ大企業のイノベーションは失敗するのか?

検索エンジンやEコマース、動画共有サイト等、今現在ネット上で多くの人々が利用しているサービスの殆どが20年前には存在しなかった新興企業によって提供されています。この状況を多くの人が当たり前だと思って受け入れていますが、これは考えてみれば不思議なことではないでしょうか?

なぜ、当時の大企業は莫大な富を生みだすことになるこういったサービス提供の主要プレイヤーになれなかったのでしょう? 

身もふたもない言い方ですが、結局のところそれは「能力がなかったから」ということになるのだと思います。多くの人が既に忘れてしまっていますが、当時の大企業は検索エンジンもEコマース事業にも挑戦し、そして破れていったのです。

例えば、IBMは1996年に鳴り物入りでWorld Avenueなる電子商店街サービスを開始しましたが、莫大な損失を出して1997年に撤退しています。楽天の三木谷さんが電子商店街のサービスを立ち上げると発表した際、多くのネットビジネス評論家が「バカだな、うまくいくわけないよ」と批判したのは、このIBMの失敗事例に基づいてのものでした。「あのIBMですら失敗しているのに」ということです。しかし今日、我々は大企業によるネットビジネスの殆どが失敗に終わっていることを知っています。

他にも、例えばNTTは1995年にはNTT Directoryなるロボット型[8]の検索サービスを開始しています。ヤフーJAPANのサービス開始が1996年ですから、時期的にはそれに先んじていたわけですが、企業価値を数百倍に高めたヤフージャパンとは対照的に、このサービスが大きな商業的価値を生み出すことはありませんでした。

また、これは単一企業による取り組みではありませんが、経済産業省は2007年に「情報大航海プロジェクト・コンソーシアム」と銘打ち、グーグルを凌ぐ国産の検索エンジンを作るという壮大な計画をブチ上げました。50社ほどの民間企業を巻き込み、300億円の国家予算を投入して3年以内にグローバルスタンダードに匹敵する検索エンジンを開発するという壮大な計画でしたが、下馬評通りと言うべきか、残念ながら150億円ほどのお金を投じた3年目の段階で中止となりました[9]

エリートはなぜアントレプレナーに敗れるのか

イノベーションの歴史をひも解くと、この「指令を受けたエリート」対「好奇心に突き動かされた起業家」という戦いの構図がたびたび現れます。そして、多くの場合、本来であればより人的資源、物的資源、経済的資源に恵まれているはずの前者が敗れているんですよね。

ネットビジネスの立ち上げにおいてたびたび見られるこの「エリート」対「アントレプレナー」の戦いにおいて、なぜエリートは負け続けるのか?もちろん様々な要因が作用しているわけですが、ヘイグループのこれまでの研究から、一つ確実に指摘出来ると考えられるのは、「動機」の違い、という問題です。

アムンセンとスコットの戦いが示唆すること

動機の問題を考えるに当たって、非常に象徴的な示唆を与えてくれるのがアムンセンとスコットによって競われた南極点到達レースです。20世紀の初頭において、どの国が極点に一番乗りするかは領土拡張を志向する多くの帝国主義国家にとって非常な関心事でした。

その様な時代において、ノルウェイのロアール・アムンセン[10]は、幼少時より極点への一番乗りを夢見て、人生の全ての活動をその夢の実現のためにプログラムしていました。例えば、下記のようなエピソードを読めばその徹底ぶりが伺えるでしょう。自分の周りに居たらほとんど狂人です。 

  • 子供の自分、将来の極点での寒さに耐えられる体に鍛えようと、寒い冬に部屋の窓を全開にして薄着で寝ていた[11]

  • 過去の探検の事例分析を行い、船長と探検隊長の不和が最大の失敗要因であると把握。同一人物が船長と隊長を兼ねれば失敗の最大要因を回避できると考え、探検家になるまえにわざわざ船長の資格をとった

  • 犬ぞり、スキー、キャンプなどの「極地で付帯的に必要になる技術や知識」についても、子供のときから積極的に「実地」での経験をつみ、学習していった

一方、このレースをアムンセンと争うことになるイギリスのロバート・スコット[12]は、軍人エリートの家系に生まれた英国海軍の少佐であり、自分もまた軍隊で出世することを夢見ていました。

当然ながらスコットには、アムンセンが抱いていたような極点に対する憧れはありません。彼はいわば、帝国主義にとって最後に残された大陸である南極への尖兵として、軍から命令を受けて南極へ赴いたに過ぎないのです。従って、極地での過去の探検隊の経験や、求められる訓練、知識についてもまったくの素人といってよいものでした。 

さてこのレースの結果は、皆さんもご存じの通り、「圧倒的大差」でアムンセンの勝利に終わります。アムンセン隊は、犬ゾリを使って一日に50キロを進むような猛スピードであっという間に極点に到達し、あっという間に帰還してしまいます。当然ながら一人の犠牲者を出すことも無く、隊員の健康状態はすこぶる良好でした。

一方のスコット隊はしかし、主力移動手段として期待して用意した動力そり、馬がまったく役に立たず、最終的には犬を乗せた重さ240キロのソリを人が引いて歩く、という意味不明な状況に陥り、ついに食料も燃料も尽きて全滅してしまいます。 

スコットの敗因については様々な分析が行われていますが、最大の失敗要因として多くの論者が共通して指摘しているのが「移動の主力手段を馬に頼った」という点です。

アムンセンが犬ゾリ一本に移動手段をフォーカスしたのに対して、スコットは動力そり、馬、犬ゾリの三種類の混成部隊を考えていました。これらのうち、どれに決定するのかの意思決定が難しかったので、三つ持っていってうまくいった手段にフォーカスする、という考え方ならまだわかります。

しかし、この点についてスコットは非常に中途半端で、動力そりについては修理する人間を連れて行っていない、犬ゾリについては犬用の食料が旅程分用意していない、といった有様でした。結局は主力を馬にする予定だったのですが、寒さでまったく約に立たず、その上、馬を維持するための馬草が膨大な荷物になっていて(動力ソリはもともとこの膨大な馬草を運ぶために用意されたがすぐに壊れてしまった)、これを運ぶだけで隊のエネルギーが消耗されてしまいました。

スコットが犬ゾリを信用しなかったのは、かつて極地で予行訓練を行った際に、知識不足故に犬を伝染病で全滅させてしまったという経験を持っていたためだと考えられています。

たった一回の「たまたま」犬が役に立たなかった経験に基づいて、極地では「そもそも」犬は役に立たないと断定してしまったわけで、これは統計的品質管理で厳しく戒められている「慌てものの誤謬」の典型といえます。イノベーションの推進に当たって、この「慌てものの誤謬」が多くの組織で障壁となります。

皆さんも何度か言われたことがあるのではないでしょうか?典型的なのは「それは以前試してみたけど、うまくいかないんだよ。理由はいくつかあって・・・」という声です。先述した通り、楽天の三木谷氏が楽天を起業した際、多くの論者がこのビジネスモデルを批判しましたが、これらの論者が捉われていたのもまさに「慌てものの誤謬」だったということが出来ます。そういう点からも、スコットという人は「新しいことをやる」のには向いていない人だったのかも知れません。 

その他にも、準備不足(低温に弱い燃料タンクを用いたためにタンクが破損し、多くの燃料を燃料漏れで失った)や隊員とのコミュニケーションのあり方(アムンセンは常に隊員との対話を通じてその日のスケジュールやルートを決定していたのに対して、スコットは常に自分ですべてを決定し、隊員がそれに反対意見を述べることを許さなかった)について指摘している分析もあって、どれもリーダーシップの有り様について深い示唆を与えてくれます。 

しかし、ここで僕が取りあげて考察したいと思うのは、「探検そのものの準備と実行の巧拙」ではなく、そもそもの「人選」に問題があったのではないかという論点です。

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