#071 「普通でない」はなぜここまで忌避されるようになったか

今日ほど「普通でないこと」が恐れられている時代もないのではないでしょうか?

米国精神医学界が発行する精神疾患の診断マニュアル=DSMは1952年に発行され、今日ではバージョン5まで改訂されています。興味深いのは改定のたびに病名が増えているということです。

具体的な数字を挙げれば、1952年のバージョン1では130ページに106の病名が記載されていましたが、1994年に改訂されたバージョン5では943ページに374の病名が記載されています。50年の間に病名が268も増えているわけで、一年あたり5〜6つの病気が新たに生まれている、ということになります。

病名が増えている、ということは患者も増えているということでしょうか。アメリカでのデータを確認してみると、確かに精神障害の患者数は毎年上昇し続けており、ここ20年間のあいだに注意欠陥多動性障害は3倍、自閉症スペクトラムは20倍、子供の双極性障害は40倍に増えています。

結果、この診断数の増加に伴って処方箋医薬品の販売もどんどん増加し、近年には精神疾患のために処方された薬品による死者数が違法薬物によるそれを超える事態となっています。

一般の疾病は症状の原因を調べることで診断されますが、精神疾患の診断は症状の類似性と問診データの傾向によって病名を決めます。DSM5などのマニュアルには小症状のリストが羅列されており、どの程度そのリストに当てはまる症状があるかで病名を診断するわけです。

さて、病気の数が短期間に数十倍になる、あるいは患者数が数十倍になるという事態を私たちはどう考えればいいのか。

普通に考えれば、たとえば近隣の環境が毒物に汚染されたというような劇的な物理的・化学的環境変化か、あるいは例えばテレビゲームやスマートフォンなどの登場によって引き起こされた劇的な社会的な変化が、こういった疾病の増減に影響を与えている可能性がありますし、事実そのような指摘をする論者が一定数存在することも確かですが、ここでは少し違う角度からこの問題を考察してみましょう。

それはつまり、これだけ短期間に病気の数、あるいは患者の数が劇的に増えたということは「正常と異常の線の引き方が変わった」ということではないか、ということです。これまでは正常とされた範囲、せいぜい「少し変わっている」と言われる程度のものであったのが、ある日から病気とされるようになった。

精神疾病の爆発的増加はこのように考えないと説明がつかないように思います。正常とされる範囲がどんどん狭くなっており、そこから多少でも逸脱する多くの人々が「あなたは病気です、あなたは異常です」と名指しされるようになっているということです。

正常と異常というのは絶対的な様態として定義できるものではありません。通常は多数派が正常であり、少数派が異常なのです。ではここで読者の皆さんに質問です。どれくらいの少数になれば「異常」だと言えると思いますか?答えは人それぞれだと思いますが、おそらく多くの人はせいぜい数%から1割程度だと思われるのではないでしょうか。

では実態はどうなっているかというと、ハーヴァード大学医学部教授のロナルド・ケスラー博士らの調査によると18歳以上の人々のDSM-Ⅳで診断された障害の12カ月間の有病率は26.2%となっています[1]。つまり、一般人口の4分の1強の人々が精神疾患と診断されているわけです。

もっと驚くべき数字があります。デューク大学医学部のウィリアム・コープランド博士らが、9 歳、11歳、13歳で調査した子どもを21歳まで追跡したところ,DSM-Ⅳで診断された障害の累積有病率は,明確に特定される障害では61.1%、「他に特定されない障害」 を含めると82.5%になると報告しています[2]

これが本当なら,青年のほとんどがなんらかの精神障害を経験したか経験していることになります。常識に照らして考えれば、8割の人が何らかの精神疾患を抱えているとは考えられませんし、もし仮にそれが真実なのだとすれば、それはもはや「異常」とは言えないでしょう。

要するに、以前なら当たり前に存在していたものが、ある日を境にして「病気だ」と名指されるようになったということです。この領域において、病気は発見されるのではなく人工的に開発されるのです。

さて、ではこの「あなたは病気だ」という名指しはなぜこれほどまでに急激に増えたのか?よく言われるのは精神疾病に関する薬品を売るための製薬会社のロビー活動だというものですが、医療サービスもビジネスである以上、供給側のロジックだけで名指しを増やすことはできません。

そこにはクリニックに診断を求める患者という「市場の需要」が足並みを揃えて拡大することが必要になります。つまり「自分は自閉症スペクトラムなのではないか?」「自分は双極性障害なのではないか」と考え、診断に駆り立てられる人も同時に劇的に増えているということです。要するに「あなたは病気だ」という名指しを、意識的にか、あるいは無意識的にかはわかりませんが、求める人が増えているということです。

なぜ、これほどまでに多くの人が精神疾患の診断に駆り立てられるようになったのか。あなたは病気だということを名指されることで、他者との何らかの違いについて、それを運命的なものとして受け入れる、自分の成果が他者より劣っているのは、才能や努力といった問題ではなく、不運な疾病のせいなのだと思えれば、問題は解決しないものの悩みの質を変えることはできるでしょう。

ここから先は

1,877字
この記事のみ ¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?