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「帝国ホテル剣舞事件」小考

 大正13年(1924)6月7日午後8時10分頃、内外の貴顕による正餐後の舞踏会(サパーダンス)が始まる直前の帝国ホテルのホールに、数十名の壮士の一団が乱入した。壮士連は「亡国淫風の舞踏絶滅」「日米条約破棄」等の趣旨のビラをまき、剣舞を披露し、排米演説をして去ったという。
 「帝国ホテル剣舞事件」や「壮士乱入事件」等と呼称されるこの事件(以下、ひとまず「剣舞事件」という)は、当時米国で施行目前であった排日移民法に抗議する目的で戦前の右翼団体「大行社」が敢行したといわれている。
 ところが、今少し詳しく剣舞事件を調べてみると、通説とは異なる剣舞事件の姿が浮かんでくる。
 以下、剣舞事件について当事者の回想や当時の新聞報道に基づいてその概要を振り返るとともに、各方面に与えた影響などにも目をやり、事件を再確認してみたい。

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楊洲周延『貴顕舞踏の略図』 鹿鳴館での舞踏会の様子を描いたものだが、帝国ホテルの舞踏会の淵源も鹿鳴館での舞踏会に行き着く:Wikipedia「鹿鳴館」より

青衿政社と深沢豊太郎 

 剣舞事件について調べると、大行社のみならず、「青衿政社」という青年学生団体と、その主宰者である深沢豊太郎および中浜直治(直次)という人物の存在が浮かんでくる。
 深沢は明治大学出身、ベルリン留学などを経て昭和5年に政友会から衆議院選挙に出馬し当選、終戦まもなくまで当選5回を重ねた。中浜も明治大学出身だが、柔道の有段者で後に兵庫県警察部柔道師範を務めるなど柔道家として大成している。
 一般的に大行社が敢行した事件といわれる剣舞事件に、青衿政社の深沢らも関わっているということはどういうことだろうか。青衿政社と大行社が共同して事件を敢行したのか、あるいは剣舞事件は大行社を主とし、従として青衿政社が加わったのか。またはその逆なのか。
 深沢は後年、剣舞事件について回想記を残している。それによると深沢は、剣舞事件は青衿政社と大行社が相通じ共同で、あるいはどちらかを主としどちらかを従として敢行されたのではなく、全く偶然、しかし目的は同じく、帝国ホテルの舞踏会で鉢合わせ、それぞれ排米を訴える行動をしたのだという。
 俄かには信じ難い話だが、排日移民法を契機に対米硬論が高まる当時(無名の士が排日移民法に抗議して米国大使館前で自決した無名烈士〔無名国士とも〕の事件もこの頃のことである)、米国人も集う華美な舞踏会は帝国ホテルの他にそうそう催されていなかったであろうから、目がつけられやすく、そうした偶然が起きたのかもしれない。大行社を主宰する清水行之助も事件直後、新聞の取材に対し次のように答え、大行社以外の団体と偶然居合わせたことを認めている。

 生ぬるい運動は我慢が出来ぬ
  之はホンの小手調べ
   大行社の清水氏曰く

〔前略〕大行社の会長清水行之助氏は語る『対米運動といっても当りさはらずの微温的な運動をしてゐるが、本当の実行はわれわれのやうな無名の青年でなくてはできない、今後は引つゞき種々の実行運動を断行する覚悟である、今頃帝国ホテルに斬こんだのは実行の小手調べであったが最初の計画はダンスをやつてる最中に痛撃を加へる筈であつた、鉄心会とは全く偶然に落ち合つたのであつて、われわれと共に公憤に燃ゆる同志があることを心からうれしく思つた。〔後略〕

(東京日日新聞、大正13年6月8日)

 ここでいう「鉄心会」とは、政友会系の院外団の関係団体であり、明治大学弁論部の学生の会員なども多く、深沢も関係していたという。そのため清水は青衿政社と鉄心会を混同し、事件当時鉄心会と居合わせたといっているのだろう。事件直後の他の報道にも剣舞事件に大行社とともに鉄心会が関わっているというものがあるが、そうした報道も後に鉄心会の名が消え青衿政社の関与をいうようになっていることから、ここでの鉄心会とは青衿政社のことを指していると理解してよいだろう。
 いずれにせよ剣舞事件は、青衿政社の事件と大行社の事件の二つあった、二つの事件が同時並行で発生したということになる。それでは青衿政社の剣舞事件は、どのような事件であったのだろうか。

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剣舞事件からしばらくの後、排日気運の高まる米国で日本人殺害事件が起きたため、帝国ホテルに宿泊する米国人たちが報復を恐れたと伝える当時の新聞

青衿政社の剣舞事件 

 深沢によると、帝国ホテルでは連日舞踏会が開催され、外国人男性と日本人女性が踊り、風紀が非常に乱れているように深沢の目に映った。そこで深沢は、舞踏会が行われている帝国ホテルのホールの一角で青衿政社として応援していた高橋是清の当選祝いの祝賀会を開催し、その場で排米の歌を歌い、日本風の剣舞をし、内憂外患を説く演説をし、周辺の舞踏会の参加者を糺そうとしたというのである。
 深沢はホテルに祝賀会の宴席費として当時の金で150円を支払いホールの席をおさえたが、事情を聞きつけた支配人が当夜の舞踏会を中止にするかわりに深沢にも自重を求めるも、深沢はこれを拒絶した。
 そして宴席が始まりしばらくすると、深沢は小林という少年剣舞の名手をホールのステージに抱き上げ、みずからは演説を開始したという。ホールは一気にしらけた雰囲気になったが、続いてステージ上の小林少年が剣舞を披露するとホールの外国人は盛り上がり、さらに居合抜きの実演により外国人の顔の目の前に白刃が突きつけられ、驚いた外国人がテーブルをひっくり返すなど、騒然とした状態になったという。そうしたなか深沢らは排米の歌を歌い、立ち去ったのだそうだ。
 深沢がいうには、この排米の歌を歌っているさなか、白襷姿の5、6人の壮士がホールに乗り込み、大行社という署名のあるビラをまいたのだという。
 なお大行社は後日、事件に際して何らの武器も携行していなかった旨を声明しており、事件に関する裁判を報じる当時の新聞報道をみても、どうやら剣舞をしたのは青衿政社であり、大行社はビラをまいたり演説するなどしたものとみられる。
 したがって剣舞事件とは、青衿政社の剣舞事件と大行社の壮士乱入事件の二つが合わさったものであり、あえて事件名を名付けるとすれば、「帝国ホテル舞踏会排米事件」とでもいうべきであろうか。
 もちろん、これまでも剣舞事件について大行社のみならず深沢らの存在も視野に入れて論じたエッセイなどもあるにはあるが、青衿政社と鉄心会をごちゃまぜにして論じていたり、青衿政社と大行社の事件時の行動の違いに言及していないなど問題がある。

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青衿政社の深沢と中浜の無罪判決を伝える当時の新聞 しかし結局、控訴審で有罪となる

事件の終局と内外の影響 

 かくて偶然とはいえ、青衿政社と大行社が共に敢行した剣舞事件(帝国ホテル舞踏会排米事件)は、日本国内はもとより海外でも大きく報じられ、大変な反響だったようだ。
 例えば、剣舞事件はニューヨークの為替や債券市場にも影響をもたらしたため、横浜港が立地し通商貿易と関係が深いということなのだろうか、神奈川県知事が内務大臣や外務大臣などに宛てて、事件がもたらした海外市場への影響をまとめた「大行社員不穏行動カ在米日本為替相場ニ与ヘタル影響」との表題の報告書を作成している。
 また国内的には、内務次官が各地方長官に宛てて、剣舞事件を実例として示した上で、今後対米運動の動向を警戒し、取り締まれと通牒しており、当局への影響も大変なものであったと思われる。それを示すように、当局は事件当初、特別の罪には問えないとして深沢らを不問に付すが、内外の反響に押されるかたちで後になり拘留や科料に処すなど厳しく罰した。
 こう考えると剣舞事件は、戦前期右翼運動における特筆すべき歴史的事件の一つといえるだろう。
 全くの推測であるが、天長節における鹿鳴館の夜会に自由党の壮士が乱入するという三島由紀夫の戯曲「鹿鳴館」のモチーフは、帝国ホテルの舞踏会の淵源が鹿鳴館の舞踏会であることを踏まえても、あるいは剣舞事件から何らかの着想を得ているのではないだろうか。三島の「鹿鳴館」創作ノートにはそうしたことは記されていないが、三島が剣舞事件を知らなかったとも考えにくいのである。
 それはともかくとしても、大行社は事件後、新聞各紙に「全日本国民に檄す!」との声明を発表しているが、そこには米国との争いは武士道精神に基づき行われるべきであり、在日米国民に対する迫害などはあってはならない、国を憎んでも国民は憎まないとの趣旨のことが記されている。

 全日本国民諸君に檄す!
昨日米国よりの通信は、ロスアンジエルスに於て、我同胞が群衆に依て迫害せられ、或は又両名の邦人が太平洋附近の要寒地帯に於て殺され居たる趣を報じ来れり、然れ共是れ新聞の報道にして巨細の事情に関し未だ十分の信を措き難きは尚ほ夫れ曩日吾等が何等兇器を携へず、帝国ホテルに赴き、国民生活のバチルス共に一場の訓戒を為したる事実を誇張し、「壮士抜刀にて外人を追廻はす」と誤報したるが如し、吾国民諸君!恐る可きは一端の感情に駆られ国家百年の大計を誤るにあり、仮令斯かる報道が事実なりとするも、吾等が米国との争は武士道の信条に依て是れを決行す可く、此の際報復的に吾邦に在留する無援孤立の米人を迫害するが如き暴を以て暴に酬ゆるの挙は断じて吾が徒の取らざる処なり、敢て其の罪を憎で其の人を憎まず、其の国を憎で其の国民を憎まざるは大和魂の精神にして武士道伝来の教義とする処、吾等は日本国民諸君が能く此の精神と此の教義を体し、苟にも大和民族の名誉を汚涜するが如き行動に出でらるゝ勿からん事を深く望むと共に、此の際日本国民諸君が全力を挙げて吾徒の立場を後援せられん事を期待するものなり。
 六月廿三日
  大行社同人

(東京新聞、大正13年6月23日)

 また清水自身は、上記の大行社の檄とは別に、「吾人は戦場に於いて米人と見ゆるを恐るゝものにあらず然し吾人は極力平和を愛するを以て開戦を齎すが如き如何なる行為をも之をなさず」、「暴挙の勃発を防止するための最善の努力をなすは日米国民の義務なり」などと声明している。
 排外主義が勃興し、中国や韓国の市民に対するヘイトスピーチが吹き荒れる今の日本にあって、こうした高尚なる武士道的精神に基づくさわやかな戦いの教えは貴重であり、むやみやたらな対外硬論を主張し、敵がい心を煽るのが愛国者ではないということなど示唆に富む。
 荒原牧水の大著「大右翼史」の足元にも及ばないが、また折に触れ過去の先人の事績を取り上げ、ささやかな「小右翼史」を記してみたい。

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剣舞事件を撮影したとされる写真が掲載された当時の新聞 

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