見出し画像

葦津珍彦と二・二六事件─「事を成す」ことへのこだわりと、北一輝への評価をめぐって─

二・二六事件に参画した水上源一

 昭和11年(1936)2月26日未明、陸軍青年将校らが首相岡田啓介はじめ要人を襲い、大蔵大臣高橋是清、内大臣斎藤実、教育総監渡辺錠太郎ならびに秘書官や警察官らを殺害、侍従長鈴木貫太郎らに重傷を負わせ、4日間にわたり首相官邸はじめ都内要所を占領した。

画像3

二・二六事件で青年将校らに占領された山王ホテル:時事ドットコム

 二・二六事件として知られるこの事件は、一般的に陸軍青年将校を中心とする軍人のクーデター未遂事件として知られている。その理解に間違いはないのだが、二・二六事件には民間人も参画し、行動を共にしていることはあまり知られていない。
 二・二六事件に参画した民間人は水上源一という人物である。水上は北海道出身で日大を卒業後、弁理士として働いていた。若き頃より右翼学生運動に挺身し、要人暗殺を計画した容疑で警察署に留置された経験もある歴戦の右翼活動家であったが、人の紹介で二・二六事件の中心人物となる陸軍中尉栗原安秀と知り合い、事件に参画したといわれる。
 なお水上は二・二六事件時、湯河原の前内大臣牧野伸顕を襲う退役軍人ら(これも大きくいえば民間人ではあるが)を中心とするグループ(湯河原班)のサブリーダーとして指揮をとり、事件後の裁判で処刑された。

水上源一と葦津珍彦

 葦津珍彦は二・二六事件直前、この水上と面談し、事件への協力を求められている。葦津「老兵始末記」(葦津珍彦の主張シリーズⅥ『昭和史を生きて─神国の民の心』所収)には次のように記されている(以下、別記なき場合全て「老兵始末記」からの引用)。

 しかし、あの時代の動乱期には、捨て石となる決意を固めた人や、棄て石に憧れたテロリストが多かった。年長者は知らないが、私と同年代の人は、ほとんどが棄て石のいさぎよさにあこがれて「事を成す」論者でないように見えた。「事を成す」との思想に、自信満々とした同年代人として、私が会見したのは、二・二六で銃殺された水上君だった。
    〇
 昭和十一年の二月なかばか、山本昌彦君が、「北、西田系の青年将校栗原君が、ぜひ会談したいと云っている」とて申し入れがあった。
 山本君は、そのころ右翼出版の編集者や代筆者として、よく活動した才能ある人だった。だが、それまで北一輝には決して敬意を表しなかった私に、何の用があるのかと多少不審にも思ったが、会見を約して、約束の日時に指定された九段下の某家に行った。そこには袴を着けた水上君というりっぱな顔をした青年が待っていて「実は習志野の演習場から栗原中尉の電報が来た。軍律でどうしても行けなくなったので、私からお話したい」との口上だった。「ああそうですか。なんの御用があるのですか」と云うと、水上君は、烈々として国情を座視するにしのびず、意を決して討奸の義兵を挙ぐべき時だと論じたてた。

 昭和11年の2月半ばというのだから、まさしく二・二六事件の直前、事件前夜といっていいだろう。そのようなタイミングで、葦津は事件の中心メンバーである栗原に面談を求められていたのである。

画像2

栗原安秀:Wikipedia「栗原安秀」

 葦津と栗原の面談そのものは栗原の都合で叶わなかったが、栗原の代理として水上があらわれ、葦津に決起を説いたのであった。葦津は二・二六事件の「圏内」におり、何か一つ間違えば葦津も二・二六事件に参画していたのかもしれなかったのである。

「事を成す」ということ

 しかし、葦津は水上の求めに応じなかった。その誘いにのらなかったのである。理由は大きく二つあるように思われる。
 一つは葦津が水上と面談した経緯を記した上掲の文の一節にある「事を成す」という点だ。事を成す、つまり決起の成否について葦津は強くこだわっており、成功の見込みがないような決起にのる気はなかった。
 葦津は水上の誘いをうけ、水上に次のように問うたそうだ。

熱烈真摯な話ではあったが、それは、そのころの維新戦線の青年が、どこに行っても論じているのと同じで、冷評すれば聞きあきた悲歌慷慨の弁とも云えた。私は、端的に「お話は同感でも、私はテロの空振りは好まない奴なのだが、断然と事を成しとげる自信がありますか」と質してみた。

 この問いかけには、「事を成す」ことへの葦津のこだわりが伺える。水上は「断固として事を成しとげる自信がある。血盟団、五・一五、神兵隊その後のテロ計画などとは、全く類の異なる威力堂々たるもので、周到精緻の戦略がある」と答え、葦津も半信半疑ながら興味をひかれたそうだが、引き続き「戒厳令下で、銀行や株式市場をどうするのか。財閥は敵だとの論は分ったが、その財閥が途端に働きをやめたら、いったいどうするつもりか。対策があるのか」などと問うと、水上は北一輝の『日本改造法案大綱』を出して、これさえあれば足りるといったという。

水上源一

水上源一:二・二六事件の刑死者らの遺族や関係者の団体である一般社団法人仏心会ホームページ

 そこで葦津は続けて、いきなり北の『改造法案』を出したら財界人が逃げ出し、東京の経済はどうなるのかと水上を質し、物別れになったそうだ。
 神兵隊事件においても、葦津は葦津が師と仰いだ前田虎雄や村岡清蔵に政治的にも軍事的にも欠陥が多すぎるとして決起反対を進言したそうだ(また計画が警察に事前漏洩していたという決定的事情もあり、葦津は反対を強く主張したそうだ)。こうして葦津は「事を成す」ことにこだわり、決起を成功させるための戦略を説き続けたが、前田らは「棄て石」の人であり、事件を決行してしまったという。

北一輝、北イズムへの反発

 水上の求めに応じなかったもう一つの理由としては、北一輝、あるいは北イズムへの葦津の反発がある。
 水上が『改造法案』を出してきたことについて、葦津は「『改造法案』の名が出てきたので、私の論は冷嘲的になって来た」と振り返っているが、このように葦津は北の思想とは馴染まず、簡単にいえば嫌いであった。実際、栗原からの面談の申し出に際しても、「北一輝には決して敬意を表しなかった私に、何の用があるのかと多少不審にも思った」といっているように、葦津は北や北の思想的・政治的影響下にあるものを根本的に「自分とは違う存在」と考えていたように思われる。こうした北への反発が葦津を二・二六事件に参画させなかった。

画像5

兵士と話をする青年将校の一人陸軍中尉丹羽誠忠:東洋経済

 しかし葦津は、なぜここまで北へ反発を覚えたのだろうか。一つには北の文中に頭山満や犬養毅を低評価しようとする試みを感じ取ったり、葦津が辛亥革命当時に兄事していた内田良平への不信や反感を述べているところが不快であったようだが、主要な点をいえば、やはり思想的な問題であろう。例えば葦津は、

北一輝の「日本改造法案」は、明治の社会主義と国家主義との粗雑な混合であって、前世紀の時代錯誤者の独善放言としか思われなかった。その著述は、文学的には、豪快な野人の情を感じさせるものがある。しかし理論としては、高度資本主義について無知にすぎ、これを革命する能力など全くないと私は思った。

として、北の『改造法案』でいう私有財産の制限や私人生産業の限度について、「金高」を制限してもそれは土地や商品、あるいは株式によって変動するものであり意味がないと指摘するなど、かなり北の主張に踏み込んで批判をしているが、青年・学生時代に社会主義に親しんだ葦津にとって、北の社会主義的思想は古臭く、「時代遅れ」のものと感じられたようである。
 また、北の天皇論にも葦津は馴染まなかった。

 それに、もっと私に不信感を与えたのは、北の天皇論であった。北の改造案は、天皇の権威を誇示して堂々の文を書いてあるが、ここに書いてある「天皇」とは、なにも日本史伝統に根のある「天皇」でなく、独特の思想を有する北一輝その人の意思以外のなにものでもないのは、少なくとも多少の思想書を見た者には明白である。かれの「天皇進化の説」は、古代からの日本民族の皇統に対する国体感とは、まったく無縁と云っていい。かれは、天皇が、現実の日本人のなかで絶大な権威を有するのをみとめて、「北一輝は命ず」と書かないだけで、「天皇は命ず」と書いているのだ。

 昭和天皇を「クラゲの研究者」とまで言い切ったという北一輝だが、その天皇論にもある種の不敵・不敬を含む。こうした北の天皇論の問題性や、青年将校らの天皇信仰と北の天皇論の乖離などは各方面から指摘がなされていたところだが、葦津も同様に北の天皇論に違和感を抱いていたのである。
 こうした葦津の北や北イズムへの反発は、戦前の一時的なものではなく、戦後においても続いていた。葦津は戦後、神社新報紙上で次のように述べている

 かつて右翼の北一輝が「支那革命外史」や「日本改造法案大綱」で、明治維新とフランス革命を、大いに論じたことがある。かれは幕府時代の天皇を「欧羅巴中世のローマ法王と符節を合するがごとし」と論じ、明治維新のところでは「明治大帝は生れながらのナポレオン」だなどと云った。その論法は、歴史の一局面一場面を叙述する文章としては、おもしろい感じもする。しかしそれは、ローマ法王でもナポレオン体制でもが、その外形の現象で画かれてゐるのであって、その精神的本質は、つかまれてゐない。歴史を思想の論理的発展として追及しようとする者にとっては、このやうな比較の方法は問題にならない。ローマ法王の本質は、変革と進歩を禁圧する精神的権威だったし、これに反して天皇は、変革と進歩の思想的拠点であった。明治天皇は、その万世一系の伝統的皇統の故にこそ維新の中心と仰がれたが、ナポレオンは、もっとも実力的な反王党主義者であり、その強烈なる伝統主義否定の故にこそ指導者たりえた。ナポレオンは決してローマ法王的な伝統精神の中からは生れて来ない。北一輝の維新論は、反訳流行時代の気のきいた一文学ではあっても、思想史の理論ではない。(神社新報 昭和37年1月6日「 国体意識の広さ深さを─明治維新史家への希望─」)

 このような北への評価をめぐる差異が葦津が水上の求めに応じなかった理由の一つといえる。

おわりに

 このように葦津は水上にも冷笑的な対応をし、決起の求めを拒み、また北の思想にも与しなかったが、決起の事実を知った時、葦津は心情として強烈な同情心の燃え立つのを禁じ得なかったとしている。葦津は事件時、同志や友人と緊密に連絡を取り合いながら、国会周辺から赤坂見附あたりを歩き部隊の動静を見ていたそうだ。

私は、戦略戦術論で、その敗北の必至を説いた理論には確信があったが、それだけに、尊皇討奸の旗をかかげながら、しかも陛下の賊敵として倒れて行くであろう将兵の悲壮な姿を見ては、涙なきを得なかった。国会議事堂の前で、暗夜にたき火をしながら軍歌を唄っている将兵の姿が、今も鮮烈に目の前に浮かぶ。

画像5

「事を成す」ことが叶わず、原隊へ帰順する将兵:Wikipedia「二・二六事件」

 こうして青年将校らに同情する葦津は、北にもある種の情けをかけている。

 かれら(青年将校ら─引用者註)が師として仰いだ北一輝、西田税はどうであったか。これは後日になって分ったことだが、かれらには青年将校よりも政治判断の能力はあった。極力決起を止めようとしたが、門下の青年の情熱が、奔馬のように燃えて止めがたいのを知って、中止勧告をあきらめた。その門下生の奔馬の情熱が、もともと自分らの思想影響に源流することを知って、その思想的責任を回避することなく、相共に死することを決意したものと思われる。かれらも、ただの扇動者ではなくして、日本武士の伝統を知る、いさぎよさがあった。
 私は、北イズムに対して、かなり手きびしい冷評の一端を書いた。ただの理論で書くとすれば、私は前記文の五倍でも十倍でも反対すべき理論問題がある。行動批判もある。たが日本の武士らしく、いさぎよく死地についた故人を、これ以上に批評するにはしのびない。

 二・二六事件から84年。事件の前夜、葦津珍彦の周囲でこうした動きがあり、右翼と云われる陣営のなかでも葛藤や対立、あるいは共感や同情など様々なものが行き交ったことは覚えておきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?