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自作の短編小説『日本政府脱管届を出した男』を自分で解説

前回、短編小説『日本政府脱管届を出した男』を投稿しました。

この小説は、明治時代に茨城の自由党員が起こした「脱管届事件」がモチーフになっています。

明治を描いた時代小説だけに、「自由民権運動」とか「国会開設」とか、「官有物払下げ問題」とか、歴史の教科書で見た記憶があるだろうキーワードなどが飛び交い、その時代に詳しくないと頭にすっと入ってこず引っかかる部分もあるかと思います。

そこで今回は、小説の題材である脱管事件が起きた時代的な背景を説明します。小説を通して描きたかったことや伝えたかったことなども合わせて紹介します。

自作の小説を自分で解説する、ネタばらしとプロモーションを合わせたような企画です。あまりない試みだと思いますが、こうしたプラットフォームを利用して自分が何を書こうとしたか振り返り再考することはよい機会だし、今後の創作活動に生かしたいといった狙いで書いています。そんな自己中の要素が高い記事ですが、明治政治史の流れの一端がつかめるベネフィットもあるので、どうぞお付き合いください。

明治14年に起きた「脱管届事件」とは

まず、短編小説『日本政府脱管届を出した男』の題材である「脱管届事件」について説明します。

「脱管届事件」とは、明治14年に茨城県の自由党員・宮地茂平が、「日本政府脱管届」と題する願書を茨城県庁に提出して物議を醸した騒動のことです。

明治14年11月8日、宮地の活動拠点である茨城県水戸市の茨城県庁に、以下の内容の願書が提出されました。

謹んで申し上げ候。私ども儀、従来日本政府の管下にありて法律の保護を受け、法律の権利を得、法律の義務を尽くしておりましたけれど、現時、大いに覚悟するところありて、日本政府の管下にあるを好まず、今後法律の保護を受けず、法律の権限を取らず、法律の義務を尽くさず、断然脱管致したくこの段、御認可仰ぎたてまつり候。以上
                       地球上自由生 栗原寛亮
                              宮地茂平
日本政府確定
明治14年11月8日
日本政府太政大臣 三条実美殿

実は宮地のほか、「栗原寛亮」なる自由党員も連名でこの脱管届を出しています。栗原なる人物については正直よくわかりません。結果的に実刑判決を受けるのは宮地一人ですし、宮地が主犯だったのは間違いないでしょう。なお小説では煩雑を避けるため、脱管届を出した人物を宮地茂平をモデルとする宮川慎平一人にして話をつくっています。

日本政府に管理されて生きるのが嫌になったので、その管理から抜け出して自由になりたい。どうぞこの願いをお聞き届けくだされみたいな願書なわけですが、結果はもちろん却下。

受理されないどころか、「違制の罪」つまり制度に違反する罪に問われ、宮地は懲役100日を言い渡されます。ただ願書を提出しただけなのにいきなり有罪判決とは厳しすぎるようですが、『明治奇聞』(宮武外骨)によると、この時代の司法はまだ未成熟の域を出ず、裁判官の裁量による判決が多かったみたいです。

「脱管」なんて言葉は辞書にも載っていませんし、当時このような手続きが存在したわけでもありません。日本政府の管理を抜け出す手続きを国がつくるはずないし、想定することもないので、まあ当たり前ですよね。

しかしその想定外のことを考えたのが宮地茂平という人でした。宮地のこの突飛な行動は新聞がこぞって取り上げ世間に大きな反響を呼んだようですが、奇特な人物による奇特な行動くらいにしか思われなかったようです。

『明治奇聞』でこの一事を取り上げた明治のジャーナリスト宮武外骨は、宮地のこの行動を「売名」と断じています。宮地はその後東京で法律事務所を開くのですが、明治40年頃には法学館長というポストに収まっていたそうで、宮地の名を聞く者は「あの脱管届の宮地か」と、誰知らぬ者はなかったといいます。それほど脱管届事件が世間に与えたインパクトは大きかったのでしょう。

ちなみに、現在でも脱管の自由はないものの、「国籍離脱の自由」は憲法で保障されており、日本政府の管理から完全に脱却することは法的にも可能となっています(ただしそれをもって地球上の自由生にはなれないと思いますが)。

脱管届事件の時代的背景

それでは、なぜ宮地茂平は脱管届の請願などという突飛な行動に走ったのか? その理由と背景が気になるところですよね。

願書には「現時、大いに覚悟するところありて」しか書かれてなくて、はっきりとした理由は不明です。先述の通り、当時は売名と捉える向きが多かったようですが、彼の自伝などはないようですし、理由について詳しく解説している媒体も自分が探した範囲では見つかっていないので、当時の時代情勢や出来事から「大いに覚悟するところ」の中身を推察するしかありません。

宮地の肩書きが「自由党員」であることからわかるように、彼は自由民権運動の活動家でした。

自由民権運動は、明治時代に勃興した「政治に参加する権利を国民に与える」ための政治運動です。

当時の政府は、明治維新に功のあった「薩長土肥」出身の人間たちで構成される「藩閥政治」でした。とくに薩摩・長州出身者による専横が目立ち、「薩長専制政府」とも呼ばれたほどです。

薩摩・長州出身なら実力のいかんに問わず、中央の官吏や政府の要職に就くことができました。出身藩や地縁がものを言うのなら、武士が特権を握った封建時代と何も変わらないじゃないか、と他藩出身の士族らから不満が当然のごとく噴出します。

自由民権運動は、こうした薩長専制政府に不満を抱く士族らが中心となり、盛り上がっていきます。国会開設や選挙の実施、憲法の制定を求めるための演説や政治集会を全国各地で開くなど、その勢力は急速に拡大していきました。

藩閥政治を打破して国民が意思決定する政治の仕組みを目指す。そのために必要だったのが「国会の開設」です。国政を担う人間を国民参加の選挙で選び、その選ばれた代表者たちによって構成される議会を創設する。そのように政府(行政府)と議会(立法府)の権力が分立した政治の仕組みこそ、近代国家としてふさわしい統治のあり方だと訴えたのです。自由民権運動は国会開設を大きな旗印として展開されました。

宮地が在籍する自由党は、土佐藩出身で明治維新に功のあった板垣退助を党首とし、立志社(明治7年設立)、国会期成同盟(明治13年設立)と組織改変を経て明治14年10月に結党。すでに全国に活動党員を抱える地盤を持っていたことから、国会開設を主張する政党としてその勢力は政府が無視できないほど大きな規模を誇りました。

政府としても国会開設の必要性は認めていたのですが、そのためには憲法の制定や選挙に関連する各種法律の制定など準備すべきことがたくさんあり、今はその時期ではないとして先送りする状況が続いていました。政府からすれば、そのような現実的な視点を無視してただ早く国会を開けとばかり迫る自由民権運動は政治の進行を妨げる反政府活動でしかありません。政府は政府なりの論理でもって新聞条例や集会条例、保安条例などの条例を制定し、自由民権運動の統制や監視を強めていきます。

そんな政府も、一枚岩ではありませんでした。内部では主導権を巡る権力闘争や意見の相違による対立など、内紛を抱えていつ空中分解してもおかしくない危うさをはらんでいました。とくに深刻だったのが伊藤博文と大隈重信の対立です。二人は憲法観が決定的に異なり、国会開設に対しても伊藤は漸進論者、大隈は急進論者というふうに、同じ政府の参議でありながら意見が一致しませんでした。

しかも大隈は思想的に自由民権派の活動家や福沢諭吉など在野の早期国会開設論者と近く、実際に交流もあったほどです。伊藤からすれば大隈の立場と行動は反政府的に映ったことでしょう。大隈を政府内に抱えていては国家運営に支障が生じると判断した伊藤は、「官有物払下げ事件」に絡んで大隈を参議辞職に追い込み、政府からの追放に成功します(明治14年の政変)。

官有物払下げ事件とは、北海道開拓使長官で参議の黒田清隆が、民間に払い下げることになった北海道の官有物を、同じ薩摩出身の五代友厚に廉価で売却する計画が発覚し、問題となった事件です。この件を自由民権派新聞の「東京横浜毎日新聞」が取り上げ、薩閥による国有財産の私物化だと政府を糾弾。同時に自由民権運動家たちによる政府攻撃も活発化します。世論の風当たりも厳しくなり、政府は窮地に追い込まれました。

官有物払下げ問題を受けての新聞や自由民権運動の動きに対し、不穏な噂が流れるようになります。それは大隈重信が、福沢諭吉や三菱創業者の岩崎弥太郎らと結び官有物払下げ問題に絡む政府糾弾運動を扇情したというのです。一種の謀略説ですが、伊藤はこの大隈謀略説を利用しつつ岩倉具視や三条実美、そして明治天皇を味方につける宮中の政治工作に成功して大隈を失脚させたのでした。

大隈は免官となり、官有物払下げは中止になったことが政府から公表されます。同時に、1890年(明治23年)に国会を開設することを決定したとする「国会開設の詔」が、明治14年10月12日太政大臣三条実美の名において発出されました。早期ではありませんが、自由民権運動家たちの活動が実を結んだ結果であり、大きな一歩でした。

自由党員宮地茂平による「脱管届事件」が起きたのは、この国会開設の詔が発せられて1ヶ月後のことです。政府に国会開設を要求しながら、いざその実現が決まると、そんな政府の管理は受けないと言い出したのです。宮武外骨の言う通りこれがただの「売名」だったかどうか、今となっては知る由もありません。

小説を通して何を伝えたかったか

僕が「脱管届事件」とそれを起こした宮地茂平を知ったのは、ここで何度も登場している宮武外骨の『明治奇聞』です。noteに上げる短編小説のネタ探しをしていて、この脱管事件の下りを読んだとき「これを小説にしよう」とひらめきました。ほとんど思いつきで、ふかく考えずに走り出した感じです。短編小説に関してはだいたいこんな調子ですが。

宮地茂平や脱管事件のことを調べてもほとんど資料はなく、頼りとするところは『明治奇聞』のみでした。宮地がなぜ、どんな動機で脱管届を出したか、肝のところはわからないので、ここは創作するしかありません。さすがに「売名」とするのはさみしすぎるし、小説として広がりようがありません。いろいろと想像を膨らます中で、やはり「国会開設の詔が発出された直後の出来事」だったという事実は引っかかることでした。ただ時期が近いという程度の単純な発想ですが、これが動機につながった可能性は大いにあると思いました。国会開設運動に取り組んできた宮地の政府による国会開設の詔は決して評価できるものではなかったのでしょう。むしろ最悪と判断したからこそ、脱管届に至ったのではないかとの想像が働きます。

宮地茂平がモデルの主人公・宮川慎平は、政府の国会開設の詔をまったく評価できなかった。むしろ危険だと思った。なぜなら、国会開設という大きな目標が達成されたことで、政府を激しく糾弾する自由民権運動が尻すぼみになる懸念がある。国会開設が決まって自由党員も人民も新聞も学者もみんな喜び、これを評価すれば、もうあとは政府のやりたい放題になってしまう。そもそも政府のこの度の決断は国家国民のためを思ったものではない。政府内の内紛や汚職騒動を糊塗するためこれを利用したに過ぎないのだ。国会開設の詔を出すタイミングが大隈参議の免官と官有物払下げ中止決定と同時なのが何よりの証拠だ。こんなよこしまな動機からはじまる国会開設が、正常なかたちになって機能するわけがない。政府のやっていることはデタラメで許されないことを多くの国民に気づいてもらわなければならない。そのために自分は何ができるかー。演説をやっても弾圧される。かといって暴力による抵抗は文明国家を生きる身として許されない。開明進歩の世らしく、きちんとした手続きを守って、なおかつ多くの人々に気づいてもらうような反政府行動をー。そんなふうに考えた挙げ句に行き着いた答えが「日本政府脱管届」。これなら新聞のネタになるし、新聞が報道すれば広く世間に知れ渡る。世間が知れば世論を動かせるー。

小説の宮川慎平はこのような動機で行動を起こしたことになっています。

もちろん「政府が国会開設の詔を発出した背景」についての分析は宮川慎平の勝手な憶測によるもので、史実もこうなっているという話ではありません。政府はどのみち国会は開設しなければならないという考えでしたが、いつ開くのか時期についてなかなかまとまらなかったのは前段で説明した通りです。ただ詔の発表のタイミングがあのような感じになり、いろいろと憶測を呼ぶものだった感は否めません。

話を戻すと、小説の宮川慎平がとった「政府は邪悪な存在であり、そんな政府が支配する世界は異常だということを国民に気づかせるための脱管届」は、狙い通り新聞報道によって世間に知れ渡ることになりましたが、その狙いを理解する人は誰もいず、法律を守らないとはけしからんと非難の集中砲火を浴びる結果に。そして「脱管の宮川」という不名誉なレッテルだけが残り、宮川は失意のどん底に落ちます。現実の世界の宮地茂平も、この一件により「脱管の宮地」で覚えられ、知らない人はいないというほど有名人になったために、その行動は売名目的だったと悲しい評価をされる始末でした(本当に売名目的かもしれませんが)。

それで、このような小説を書いて伝えようと思ったテーマは、「人は世間を生きず自分を生きなければならない」ということです。宮川は自分が起こした行動の意味と目的を誰にも理解されず苦しみますが、最後はそれではいけないと、そこから抜け出そうと思い立つところで終わります。思いが強くて行動的な若者が失敗から立ち直る成長物語みたいな話にしたかったのでした。

なお、「人の行動は真剣なほど極端になり、誰の理解も共感も得られなくなる」ということも裏テーマとして書いたつもりです。真剣になればなるほど周りとの温度差が開いて孤立する現象は人間社会にみられる悲劇であり、現代にも共通する問題ではないでしょうか。







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