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徒然草を読んで

古典は好きなほうだ。でも、読んだ作品は数えるくらい。誰もが知っている名作ですら、まだ読めていないものは多い。興味・関心止まりで、読むための行動までにはいたらない「古典好き好き詐欺」(?)を通してきた。

そんな私が、つい最近、『徒然草』を読み終えた。

日本人なら、名前くらいは誰もが知っている古典文学。有名な書き出し「つれづれなるままに」までは、おそらく95%の日本人がさらっと口に出せる。その次に続く「日暮らし、硯に向かひて」までになると、そらんじられるのは65%くらいにとどまる。「心にうつりゆくよしなし事を」まで言える人は、たぶん45%で、「そこはかとなく書きつくれば」までいくと、たぶん25%に落ち込む。最後の「あやしうこそ物狂ほしけれ」まで完全に記憶に留めている人は、古典ファンか徒然草マニアか、それともただの頭のよい人で、7%しかいない。たぶん。

自分は「心にうつりゆくよしなし事を」までは何とかギリギリ言えたほうで、さっきも言った通り、古典に興味はあるほうだけど、精通しているとまではいえず、徒然草マニアでもない。頭のほうは……そんなことはともかく、本書を読み終えた今となっては明言できる。「自分は徒然草のファンになった」と。

徒然草は、おもしろい。どこかおもしろかったか、いろいろポイントはあるけど、「人間」と「人生」の捉え方がおもしろかった。「そんな見方もあるな」の発見も、「うんうんそうだよな」の同意もある、学びと共感を与えてくれる古典文学。

「生きづらい世の中を、少しでも楽に生きる」ためのヒントが、たくさん盛り込まれている。

「むかしの人も、今の人と同じようなことで悩んでいたんだな」ということがわかり、時代や社会の存在をそんなにも特別なものだと思わなくなる。

『方丈記』にも書かれていたけど、「世の中は生きづらい」もの。「生きづらい世の中」ではない。前者は自分が認識することで、世の中を自分なりに捉えられる。後者は世の中という曖昧模糊とした存在に、自分がその意識を囚われる。もちろんこんな差別化をしたところで生きづらさは解消されないが、世の中や人生を捉え直すだけで、心の持ちようは変わり、少しだけ楽になる。

徒然草や方丈記などの古典作品は、そんな本質的なことを教えてくれるからおもしろいし、時代を超えて残ってきたのだと思う。

いつの時代になっても人間は変わらないものだ。「自慢話をしてマウントを取る人」も、「世間の空気に合わせているだけの人」も、「専門知識をひけらかす人」人も、みんな徒然草に出てくる。古典だけど、現代でもあるあるな話がたくさん出てきて思わずニヤリとなる。

以下は、『徒然草』の第112段の現代語訳を簡潔に要約した文章。

自分の人生をいちばん大事に生きるためには、すべての縁を打ち捨ててもよい。約束も礼儀も守らない。人情がないと思われてもいい。私のことを非難してくれて構わないし、誉めてくれなくてもいい。

現代風にいえば、「人間関係の断捨離」「自分軸を生きる」「承認欲求の克服」の大切さを教えてくれる内容。

次は、第110段で紹介されている、ある双六名人から教えてもらった「双六で勝つコツ」

勝とうとして打ってはいけない。負けまいとして打つべきである

上手く説明できないけど、とても重要なことを教えてくれている。確かにそうだ。「勝つこと」と「負けないこと」は、まったく違う。このふたつを混同してはならない。違いをちゃんと意識し、いろんな場面で困難を切り抜ける心構えを持ちたい。深くて、含蓄のある格言。人生や会社経営、日頃の心の持ちよう……援用できる場面は多いだろう。

『徒然草』が書かれたのは、南北朝時代の初期。鎌倉幕府が崩壊し、武家社会が激しく動乱する時代だ。作者は歌人でもある吉田兼好。冒頭「心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば」とあるように、作者の思うことや考えることがとりとめもなく綴られている。

テーマが特定されていないので、話は大空を翔る鳥のように、いろんな分野を自由に飛び回る。人生観や人間観、賢人のあるべき振る舞いや男女の付き合い方まで、ユニークな視点と人間観察にすぐれた兼好の思索が展開される。事実婚の価値を認めるような考察もあり、時代をはるか先取りした考え方には驚かされる。北条時頼や後醍醐天皇など、歴史上の高名な人物の裏話も興味深い。兼好は隠居する以前宮中に使える役人だったので、鎌倉武士や宮廷貴族と交流する機会も多かった。

『徒然草』は、他者に読まれることを想定して書かれたものではない。ほとんど日記の性格を帯びた作品である。それはあたかも、兼好が自身の思索や感情の「正体」がいったいどのようなものでどんなかたちをしているのか、言葉という鏡を使って映し出すために書いたかのようで、何か禅僧のごとき厳粛さを感じる。

時代を超えて愛される古典文学も、世の中に登場したての頃は、さほど評判を呼ばなかったらしい。徒然草が広く世に知れ渡るようになるのは江戸時代の頃で、発表から300年くらいの時間を費やさねばならなかった。すぐれた芸術作品といえど、時代性の因果からは逃れられないのだろう。

古典として残る作品とはどんなものだろうか。いろいろな条件があると思うけど、一つは「普遍性」ではないだろうか。普遍性を備えた作品には、人間の本質に迫る鋭い批評精神が流れている。徒然草が今日まで読み継がれてきたのは、兼好の深い洞察力と精緻な観察眼によって人間の地金が掘り起こされ、それを楽しむ妙味があるからだと思う。

本質に迫ること。それは、根源を探求する行為、と考える。人間の本質に迫るなら、「人間とはどういうものか」を突き詰めて考え、問い続けなければならない。

現代では、この「本質」が蔑ろにされていないだろうか。根源的な問いをする余裕も、なくなってきていないだろうか。

「人間はどうあるべきか」「地球はどうあるべきか」の理想ばかりが先にきて、「人間とはどういうものか」「地球とはどういうものか」の根源は置き去りに、議論が進む。この現象は、科学や文明が進みすぎた結果かもしれない。何でもその力によって支配できると勘違いした傲慢さの表れかもしれない。「どうあるべきか」の前に「どういうものか」をちゃんと考える行為は、現代であってもすっ飛ばしてはならないのだ。いくら科学や技術が進んでも、我々はまだ、生命体のことも地球のことも自然のことも、7%だってわかってやしないのだから。

というわけで、本質の大切さを忘れがちな現代人に、徒然草のような古典作品をおすすめしたい。














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