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GW知多半島を巡る旅② 岩屋寺奥之院

 以前から一人では何度か訪れているが、家族と一緒に来たのは初めてかもしれない。第2弾は長い長い歴史をもつ岩屋寺。

 岩屋寺のホームページの情報によると、開基は相当古い。
 草壁皇子と元明天皇の娘である元正天皇が即位された霊亀元(715)年に勅使として押小路中納言実直卿が都より派遣され、 後に東大寺建立に尽力され日本で最初に大僧正になられた行基菩薩が導師となり聖観音の開眼供養が行われたのが始まりと伝わっている。
 
 大同元(805)年、弘法大師(空海)が唐の国から戻ってから3年余り後の大同3年、岩屋寺に立ち寄られた際、草深い盆地にある岩窟の聖地を大変気に入られたという。 「己が弘通ぐつう(=仏教を広める事)の本山たらん」と高野山に金剛峰寺を創建後、再び諸国遍歴をされ、途中で岩屋寺にて百日間の護摩修行をされた。 修行を終えられた際に護摩の灰で一寸八分の千手観音をお作りになったという。時に天長8年(831)4月の事だった。

 平安時代末期の平治元(1159)年、京都での平治の乱で平清盛に敗れた源義朝が知多の野間にある「大御堂寺」へ家臣を頼ってやってきた。その家臣(長田忠致・景致)の裏切りに遭い、義朝公は野間で殺害された。風呂に入る際だったため、謀反の際、「我に木太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせん。」と無念の死をとげた義朝公。野間大坊の源義朝の墓にはたくさんの木刀が奉納されている。義朝公の墓だけでなく、御首を洗ったとされる「血の池」等、義朝ゆかりのものが境内には多数ある。源義朝は後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や源義経の父にあたる。
 それからしばらくの後、浄土真宗開祖である親鸞聖人が関東・東北地方へ布教の折、三河国柳堂(現在の愛知県岡崎市矢作町)で逗留中に義朝の墓が野間にあることを知ってお参りに立ち寄られた。義朝の霊廟をお参りの際に当山観音の由緒を聞いた親鸞聖人は参詣に訪れ、感銘を受けて「而して斯かる霊地へ我が門徒の輩を詣でさせん」と自ら阿弥陀仏如来の一尊を書き納められた。これが現在の阿弥陀堂本堂だ。

 江戸時代の名僧:寛海大師(豪潮律師)が尾張藩主の徳川斉朝候からの依頼を受け、岩屋寺へ赴任したのは文政2(1819)年のことだ。創建当初の岩屋寺は元正天皇の勅願寺として御朱印を頂戴し、堂塔伽藍十二ヶ坊等隆盛を極めまたのだが、永享(1429~1441)・永正(1504~1521)・慶長 (1596~1615)の各年間に打ち続いた兵災、寺僧の減少等により美を極めた伽藍も朽ち果て、危機的状況だったという。寛海大師は尾張徳川候に願い、本堂の修復、寺宝の手入れ等を行った。この時期に岩屋寺は尾張候の祈願所となり、三つ葉葵の寺紋を許されることとなった。寛海大師は岩屋寺に於ける中興の祖とされている。

 昭和26年に尾張高野山岩屋寺として独立改宗した。第一世管長である松井豪鉄大僧正(寿妙上人)は現在の名古屋市に生まれ、清和源氏の流れを汲む名家であったが、尾張徳川家に仕えていた事もあり、明治維新廃藩置県により帰農する事になった。幼い頃より柔和温順、頭脳明晰、神童と謳われる程だったが、4才にして父を亡くし、極貧の中にあったものの母の手によって愛情深く育てられた。9才にして村瀬豪鋭につき得度入門し、修行に励み、​岩屋寺に転住する以前に晋山した東光寺・円興寺にて、本堂再興や書院新築・修繕等を行い、檀家以外に信徒を1千名以上集める等、カリスマ的な人気を得た大僧正である。岩屋寺に転住してからも、衰える事無く伽藍の整備等に努め、昭和26年に尾張高野山岩屋寺として独立開宗し、布教の実を全国に広げ、20ヶ寺余りの末寺を統率された尾張高野山の開祖である。


奥之院 三重塔

 私は何度か岩屋寺を訪れているが、一番のお気に入りの場所は奥の院だ。本堂からは200mほど離れた場所にあり、背の高い緑の木々の風に揺らぐ音、この時期だとウグイスの鳴き声、そして小川を流れる水のせせらぎに心から癒される場所だ。陽が届かないせいか、少しヒンヤリした空気が漂っているのだ。自然の美しさと心地よさを楽しみながら進んでいくと、突然のように真っ赤な三重塔が姿を現す。「弘法大師御開創霊場」と書かれた石の柱が立ち、その手前には迷いを救うお地蔵さん赤い前掛けをして並んでいる。ます。三重塔をまわりこむように階段があり、奥の院の本堂へ続いている。本堂は814年に弘法大師が100日間の護摩修法を行った場所で、お堂の奥が岩山の洞窟になっている。現在も毎月17日に護摩法要が行われているそうだ。

三重塔の前で記念撮影

 本堂と奥之院の間に中之院には、たくさんの軍人像がある。この軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第三師団歩兵第六連隊所属の兵士たちだ。
 緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、はしけで野間沖に待機していた巡洋艦・駆逐艦に乗り込み、わずか26時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月23日の敵前上陸だった。しかしながら、上陸後わずか半月足らずでほとんどの兵士が全滅してしまったという。軍人像そのものはそれぞれのご遺族が戦没者の一時金をもって、写真を基に造らせ、建立したものです。昭和12年から18年のことだ。当初は現在の覚王山墓地付近(名古屋市千種区月が丘)にあったのだが、戦後、進駐軍が取り壊しを命じた。僧侶が「国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない。あれを日本人の手で壊すことはできない。どうしても壊すというなら、我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろう。」と頑張った。おかげで像は壊されずに済んだということだ。後にその軍人像を後世に遺すために現在地に移転したとのことだ。

 


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