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ビキニ環礁での水爆実験が生んだゴジラ

 ビキニ環礁は、かつて日本委任統治下南洋諸島の1島で1945年8月15日のアメリカ合衆国への割譲以降、1946年7月1日のアメリカ合衆国による第二次世界大戦後の最初の核実験(原子爆弾実験)と、それ以降1958年まで23回の核実験(原子爆弾および水素爆弾)が行われた環礁である。現在はマーシャル諸島共和国に属する。

 1946年7月の原子爆弾の実験が由来となって水着のビキニの名称が生まれた。1946年7月1日の原爆実験(クロスロード作戦)の直後の1946年7月5日にルイ・レアールが、その小ささと周囲に与える破壊的威力を原爆にたとえて、ビキニと命名して水着を発表した。ビキニの名称は、誤って「水爆実験になぞらえた」と言われることがある。ビキニ環礁における最初の水爆実験は1954年3月1日のもので、この水着の発表の8年後である。アメリカ合衆国がビキニ環礁で行った水素爆弾実験(ブラボー実験)により、多量の放射性降下物(死の灰)を浴びたのが、日本の遠洋マグロ漁船である第五福竜丸の乗組員23名だ。無線長の久保山愛吉氏は、被爆した1954年3月1日から約半年後の9月23日に死亡した。政府調査によれば同時に被曝した船が1422隻もあったという。

 70年ほど前の、それは読売新聞のスクープから始まった。「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」(23名が原子病)の見出しに、第五福竜丸が帰港した静岡県焼津市はもちろん、日本中が震撼した。国民は「死の灰」を浴びた船員の容体を案じ、魚市場では大量の「原爆マグロ」が廃棄された。原水爆禁止の呼びかけに3200万人が署名した。米占領下の情報統制で封印されていた広島・長崎の被爆惨禍に光が当たるのも、ビキニ事件がきっかけだった。
世界の科学者は、無線長の久保山愛吉さんが被曝から半年後に亡くなった事実に衝撃を受けた。核兵器廃絶を訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」にはこう記される。

瞬間的に死を迎えるのは少数に過ぎず、大多数の人々は、病いと肉体の崩壊という緩慢な拷問を経て、苦しみながら死んでいくことになる

 放射能という目に見えない何か恐ろしいもの、核戦争が人類を滅ぼすかもという不安が全人類にもたらされた。水爆実験で目覚めた巨大恐竜が日本を襲う映画「ゴジラ」が封切られたのが、事件の年の11月だ。それ以来、怪獣
や宇宙人が登場する映画やテレビ番組で「核がもたらす破滅」は定番テーマの一つとなった。日本はやっと平和を手にしたのに、アメリカの核に市民が踏みにじられる憤りが投影されたと考えるべきなのか。

 初代の『ゴジラ』は、ビキニ環礁での度重なる水爆実験の影響で太古より眠っていた生物が巨大化し、日本を襲ったという設定だ。初代ゴジラが映画化されたのは、ビキニ環礁で実際に操業していた第五福竜丸の乗組員が被爆した8か月後だ。広島と長崎に原子爆弾が落とされて9年後に映画化されたことになる。『ゴジラ』は、映画を観た人に、核と放射能への恐怖、その危険さをメッセージとして送り続けるための映画だった。

 しかしながら、2014年のハリウッド版『ゴジラ』では、ゴジラがサンフランシスコに上陸する話になっているのだが、「ビキニ環礁での水爆実験が行われたのは、アメリカを襲うゴジラを殺すため」という台詞が出てくる。  日本の第一作「ゴジラ」とはそもそも前提がまるで真逆なのだ! アメリカの核実験の正当化にしか聞こえないと感じたのは私だけだろうか。

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