【第4回】ちょっとだけハードな僕の人生~幼少期に嫌いだったもの嫌だったこと編~【自伝コラム】
幼い頃に嫌いだったもの、嫌だったことを思い返すと、ぱっと思い浮かぶ情景が僕には2つあります。
1つ目は、僕ら子供に向かって獣のような怒鳴り声を上げる父の姿です。
まず初めに断っておくと、幼い頃から僕は父のことが嫌いだったというか、ひどく苦手でした。
理由はと聞かれても、当時の僕には「なんとなく」としか答えられなかったと思います。
幼さ故に考える力が足りていなかったというのもあるとは思いますが、それ以上に僕らは、思い浮かべるだけで思考が停止するほどの恐怖を父に対して常に感じていたのだと思います。
とにかく、当時の父の神経質さは常軌を逸していました。
その頃僕らはまだ、物の分別のつかない幼い子供でした。
なので、それ相応のいたずらや粗相は、複数兄弟であったのも手伝って毎日のように起こります。
しかし父は、僕らが幼い子供であることなどお構いなしと言った形相で、その一つ一つをとんでもない勢いで叱りつけました。
想像して下さい。
喧嘩をしたり、大きな物音を立てたり、誤って物を壊したりしてしまうその度に、とんでもない怒鳴り声を上げて僕らのもとに迫りくる、成人男性の姿を。
大人になった今であれば、自分の感情をコントロールできないかわいそうな人、程度にしか思わないかもしれません。
何を怒鳴ってるの?
そうすればみんな言うことを聞くとでも思ってるんでしょ?
そう言って終わりです。
しかし、それを受けるのが体が小さく立場も弱い子供であったらどうでしょうか。
少なくとも幼少期時代の僕にとっては、そのすべてがトラウマもので、今でも当時の様子は鮮明に記憶に焼き付いています。
とはいえ僕ももう子供ではありません。
今では、父の気持ちも百歩譲ってわからなくもない訳です。
しかし、子育ては大変であるとか、社会に出るのは尋常なことではないことだとか、そういうありふれた言葉では到底割り切ることが出来ないほど、当時の父の僕らに対する容赦のなさは異常でした。
僕らは親子ですから、楽しかった思い出も、思い出せば懐かしいと思える記憶も沢山あったはずなのですが、残念ながら、大人になった今思い出す父に関する記憶は、その殆どが「怒鳴り声を浴びせられた瞬間」です。
その奥にわずかに、優しく笑う父の笑顔や、遊びに付き合ってくれた記憶があるだけで、本当にそれくらいです。
悲しいですが、本当にそれが事実なんです。
2つ目は、幼稚園の頃に同学年の男児にいじめられていた頃の記憶です。
はい。
そうです。
僕という人間は、何を隠そう生粋の苛められっ子です。
なんと、早くも幼稚園の頃からいじめを受けていたわけですね。
僕という人間は終始ぼーっとしていて口数も少なかったため、幼い頃から「何をしてもリアクションをしない相手」としていじめの標的にされやかったのです。
まぁ、リアクションをしたりやり返したりしないだけで、心のなかでは怯えも震えも悲しみもするのですが、いじめをする人にはそれを感じ取るだけの感性がないので仕方がありません。
しかし、この頃僕が受けていたいじめは、今考えれば比較的些細なもので、主に一部の男児たちから「臭い」「キモい」と悪口を言われると言った、子どもの嫌がらせレベルのものではありました。
それでも繊細な少年であった当時の僕にとっては、その言葉の一つ一つが辛くて、言われる度にどうしようもなく悲しくはなりましたし、段々と日が経つにつれて幼稚園に行くこと事態も怖くなってしまってはいましたが。
唯一、今考えても子どもの嫌がらせでは済まされなかったことは、自分の靴が勝手にビオトープの池に捨てられていたという一件です。
これはおそらく、どの世代の誰が受けてもかなりきついと感じる部類のいじめです。
しかし幸いなことに、当時の僕にはその時自分の身に何が起こっていたのかがよくわかっていなかったので、この件に関して言えば無駄に傷付かずに済んだみたいです。
さて。
このような仕打ちを学生時代の殆どの時間において受け続けていた僕ですが、幼児や子供が特別嫌いだと思ったことはあまりありません。
しかし、幼い子供は純粋で心が綺麗だという風潮に関して言えば、少々違和感を覚えます。
子供は隠しているだけで、大人のいないところでは平気で人を傷つけますからね。
少なくとも僕は、僕を傷つける際に男児たちが見せていた楽しそうな顔を今でも覚えています。
というか、子供にもグロテスクな一面があるなんてこと、自分の幼少期を思い出せば分かることのはずなのに、何故みんな口を揃えて、子供の心は綺麗だ何だというのでしょう?
持ち合わせた悪意までもが純粋なのだということでしょうか?
それならば何となく、筋が通っているように思えますが。
まあ、何が言いたいかというと、そのような経験をした僕から言わせていただくと、子供も大人もそれほど本質は変わらないように見えるということです。
違った点があるとすれば、持ち合わせた知識の量に経験、身体的な可動域の広さ、それと最後に立たされている立場くらいなものだと思います。
なので、よくも悪くも僕は幼い子供に対する時も、大人に対するのと同じで目を見て真剣に話をするようにしています。
すると実際、明らかに表情が変わります。
年相応に振る舞うことをやめた大人とも子供とも言えない一人の人間の影が、奥の方に見え隠れするというか。
とにかくそれを見るたびに僕は、「人間、大人も子供もねぇな」と思います。
まぁ、何にしてもです。
幼少時代にいじめられた記憶というのは、これまで僕の人生によくも悪くもと色々な影響を与えてきたように思います。
きっと、それは僕の人生についた2つ目のトラウマと言うやつなのでしょう。
やはり幼少時代についたトラウマというのは、その大きさにかかわらずいつまでもついて回るもののようですね。
まぁ、ついて回るといっても、この程度のトラウマはもうとっくのとうに乗り超えて、今は僕の足元で無様に潰れていますが。
ただ、そういう事があったなという独り言として、今回は書かせて頂きました。
幼少期に嫌いだったこと、嫌だったことは思い出そうとすれば他にも沢山あるのでしょうが、この2つだけでも語れば、今回はもう十分でしょう。
他のことは思い出したときにでも書くか、またの機会に書かせていただくことにします。
ということで、かなりシリアスな感じになってしまった第4回ですが、いかがだったでしょうか?
次の第5回はやっとのこと学生時代に突入ということで、小学校時代の記憶について何かしら書かせていただくことになるかと思います。
今度はとっても明るい話をさせていただくつもりなので、今回の記事を読んで「ちょっとくらいな」と思われた方も、是非読みに来てください。
それでは今回はここでおしまいにするとして、
次は第5回の記事でお会いしましょう。
さようなら〜。
【第5回に続く】
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