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Society3.5の現実:情報社会は本当に到来したのか?

少し前の稿で、筆者の認識では、Society 5.0の到来はおろか本格的な情報社会すら到来しておらず、現在はSociety 3.5だという話をしました。本日はその補足をしたいと思います。


人類の歴史を狩猟社会 (Society 1.0)、農耕社会 (Society 2.0)、工業社会 (Society 3.0)、情報社会 (Society 4.0) という形で区切っていくのは、未来学者アルビン・トフラーの影響を強く感じます。トフラーは1980年の著書『第三の波』の中で、農業革命という第一の波によって狩猟社会が農耕社会になり、産業革命と言う第二の波によって工業社会が到来した。いま第三の波と共に情報社会が訪れつつあると予言しています。問題は、その情報社会がどんな姿なのかということです。

いまの社会は主に産業革命の影響下にある

経営学者のドラッカーは産業革命の影響に関し、「蒸気機関の出現が鉄道につながり、鉄道は銀行、郵便、新聞の出現をもたらした」と言ったとされています。ある革新的な技術やムーブメントは、影響が連鎖して社会を大きく変えていくという意味です。これはまさにイノベーションですから、予想するのは簡単ではありません。蒸気機関の発明で有名なワットは、自分の技術を守ろうと特許裁判に多くの時間を使いましたが、もし銀行や新聞まで影響が及ぶことを見通せていたなら、蒸気機関の価値を最大化するために知的財産を囲い込むのではなく、新しい業態の企業を起こすという判断をしたかもしれません。このような複雑で広がりの大きな話ですので、筆者に情報社会の完成形を予言する力がないのは自明です。ここでは未来予測に頼るよりも過去を振り返り、農業社会から工業社会への変化がどれほど大きかったかをヒントにしてみましょう。


農業社会では、一般の人々は時計を持っていなかったとされています。作付けや収穫に関わるので暦に関しては非常に正確ですが、一日の労働に関して5分10分のズレは何の問題もないからです。人々が時間を気にするようになったのは、工場で同じ時間に集まり、働いた時間に応じて給料を受け取るようになってからでした。それまでの農業社会では必要に応じて早朝から働き、一仕事したら午睡を取るといった仕事スタイルだったようです。

均質な教育が実現したのも産業革命以降のことです。質の高い労働力を大量に確保するために教育が広く義務化されました。家庭の姿でいえば、それまでは大家族で農地の近くに住んでいたところ、工場労働に伴い核家族化、都市化も進みました。規則正しい一日三食の生活リズムもそうです。大企業という存在自体も産業革命によって誕生したとされています。その意味では、階層型の組織や、経営学のような学問も産業革命の産物です。


これらのほとんどが現在も継続していることがお分かりだと思います。少なくとも言えるのは、現在の社会は数百年前からの産業革命の影響を大きく受けているのであって、何万年も続く人類の歴史を通した、普遍の姿ではないということです。それはつまり、次代である真の情報社会へと進展したときに、現在の生活のどれが残り、どれが変わるのかは分からないということも意味します。全員が同じ時間に出社して時間で給料をもらうのがいいのか。均質な教育が求められるのか。核家族が都市に住むのは幸せで効率的なのか。規則正しい一日三食の生活は何に効果があるのか。今後も大企業というあり方が経済活動を支える主流な形であるのか。階層型組織や今の経営学が情報社会でも継続するのか。

また、完成形が予測できないだけではなく、いつが情報社会の完成なのかも判断できないでしょう。というのも、様々なスタイルは混在するからです。現在は工業社会が主流と述べましたが、狩猟採集や農業を営む人々も同時に生活しています。同様に、情報社会が到来したとして、工業に従事する人々がゼロになる訳ではありません。工業社会になり農業の多くが工業化したように、情報社会が到来したときには狩猟採集、農業、工業いずれも情報化するでしょう。技術的には、既にその萌芽は随所に見られています。

ですから、情報社会の到来というのは、何かはっきりとした区切りがあるものではなさそうです。むしろ価値観として多数派が占めるようになったときに、社会が転換したと言えるのかもしれません。例えば現在は工業社会のパラダイムで動いているので、将来は農業に従事しようと思っている学生でも、時間を気にしなかったり昼寝をしたりする訳にはいきません。教育が工業社会の基準で運用されていることは、狩猟採集や農業の視点からは不合理なことですが、受け容れざるを得ないのです。

これをベースに考えるなら、情報社会が本格的に到来するということは、情報産業を前提として、情報産業に適する形で社会のスタンダードが決まり、ほとんどの人が疑問を抱かなくなるということでしょう。あるいは、情報の本質的な柔軟性から、大多数が同じ行動を取るというスタンダードが存在しない社会になるのかもしれません。いずれにせよ、筆者が「未だ工業社会のパラダイムが支配的」「本格的な情報社会は到来していない」という意味がお分かり頂けたのではないかと思います。


随所に見られる情報社会の萌芽

少し補足すると、筆者は現在がガチガチの工業社会で、情報社会の断片がかけらも見えないと言うつもりもありません。

例えばコロナ禍で急速に普及したリモートワークはその典型です。工業では、製造装置のある場所に労働者が集まり、集約的に働くことで生産性が高まりました。しかし情報産業では、必ずしも一箇所に集まって同じ時間に働く必要はありませんし、実際にオフィス復帰によって生産性が上がることはなさそうです。余談になりますが、先に紹介した『第三の波』でトフラーはリモートワークも予言しています。そのなかで、当時のUSでは離婚が大きな問題になっており、リモートワークによって夫婦の会話が復活し家庭の状況が改善すると予想しているのも面白いところです。

ものづくりにおいても影響が出つつあります。今では、製造装置がなければ製造自体を世界の各地に外注できますし、資金がなければクラウドファンディングで集めることもできます。人が足りなければクラウドソーシングで助力をお願いできます。このように、かつて必須とされたヒト・モノ・カネの重要性がインターネットによって薄れつつあるのは、まさに情報社会の到来を予感させます。

起業が活発なのも関係あるかもしれません。先に述べたようにヒト・モノ・カネを大量に保有する重要性が低減した結果、少数の優秀な人材のみで大企業と伍するビジネスが立ち上げられるようになってきました。確かに現在は成功したスタートアップの多くがM&Aを通じて大規模化しますので、今後の情報社会でも大企業の優位は揺るがないかもしれません。しかし、今後は大企業という存在自体が一部の産業に限られる未来になる可能性を想像しておく必要もあるでしょう。

ゆとり教育は物議を醸しています。ある程度の知識を内在化させないと生産性も創造性も上がらないのは確かですが、記憶力も計算速度も人間の遥か上を行くコンピュータが、AIの発展で翻訳も作文も高水準でこなす現在、子供たちは本質的に何を学ぶべきなのでしょうか。その答えが出ていないにせよ、詰め込み教育の是非が本格的に問われ始めていること自体が工業社会からの脱却を予感させます。


こうやって見てみると、まさにいま社会は転換期にあるのではと思われます。社会というのは、技術とか経済とかの一側面で急激に変わるものではなく、価値観や制度の変革を伴ってゆっくり変化するものです。教育界には“40年ギャップ”という言葉があります。親は自分の子供に対し、自分の経験 (20年前) で物を言う。その教育の結果は子供が大人になってから分かる (20年後)。したがって、親の子供に対するアドバイスは40年のギャップがある、というものです。教育に限らず、こういった世代に亘る価値観が変わって初めてコンセンサスが変化しますから、社会が大きく変わるというのは必然的に時間が掛かるものです。本家イギリスでの産業革命は、1760年代から1830年代まで、70年程度の時間が掛かったとされています。2024年現在、トフラーの『第三の波』出版から44年。果たして情報社会が隅々まで浸透するのはいつ頃になるのでしょうか。

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