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信じるものは救われる、のか

先日、京都劇場にて、『ジーザス・クライスト・スーパースター』のエルサレムverを観劇した。

オペラ座の怪人が大好きな私としては、アンドリュー・ロイドウェバーが20代の時に描いたミュージカルということで、いつかは見てみたいと思っていた作品

劇団四季の礎となった作品ということもあり本当にドキドキしながら劇場へ向かった。

これはイエス・キリストの最後の7日間の話を描く、ロックミュージカル。
幕間休憩なしの1時間45分の物語だ。


見終えた感想は、凄まじかった、である。

これは凄まじい死に様の話。

救世主、神の子として讃えられるイエス・キリストを1人の青年として描き、彼が死ぬまでを描く。
乾いた地でひとり、神の子としての使命と自分自身との狭間で苦悩する青年の話。
預言者であるが故に自分が死ぬこと、誰により裏切られるかもわかっていて、「なんのために生きたのか」「なんのために死ぬのか」を神に問う姿と度々起きる絶叫が、その孤独と苦悩をくっきりと浮き彫りにしていく、その凄まじさよ。

信じて尽くして捧げて命をかけて尽くしたものに、最後見捨てられたと思って死ぬの可哀想すぎるし、それでも魂をあなたの御心のままにと言えるほどの信仰心とはどれほどのものかと思った。
私自身、信仰する人間ではないからこそ、決してわからない感覚だからこそ興味深かった。
信じるものは果たして救われるのか、永遠の課題とも言えるこの言葉が人間の愚かさと共にズンッと胸に重くのしかかった。


そして、この物語は裏切り者「ユダ」の物語でもある。


彼と、マグダラのマリアだけがジーザスも1人の人間であることを分かっていて、マリアは信仰者としてジーザスのそばにいることを決意し、ユダは友人としてジーザスと決別することを決意する。
どちらもジーザスを愛しているのに、選択がまるで違っていてその対比が苦しかった。

神の子として祭り上げられて行く大切な友人、世間は愚かで必ず裏切るという確信、そして誰かがあなたを追い詰めるなら私がやるという愛。
自分の言葉に耳を傾けられていたら止められたのに、とユダが信じていたとは思わないが、転がり落ちて行く運命を前にそう思うしかなかった凡庸な人間。

ユダに絶叫のように「ゆけ、すぐに去れ」と叫ぶジーザス。ユダが去った後に「誰もいないのか」と呟くところも2人の関係性を色濃く描いていてとても苦しかった。

ユダがジーザスにキスしたのを合図にジーザスは捕えられるのだけど、これほどの静けさはあるか、と思った。自分たちを取り巻く全てから隔絶された時間、あれが永遠のような一瞬なんだなと思った。

ジーザスを失い、どうして愛してしまったのか、彼なしで生きていけるのかと問いながら自分で命を断つことしかできなかったユダのそのクソでかい感情がずっと辛かった。言葉にならない想いが渦巻いた。なぜ愛してしまったのか。キリスト教の中で語られる「自殺」の違法性を思い出しながら、ユダの魂が2度と救われることはないんだなと悲しくなった。


最後に磔にされた体だけがぼんやりと浮かび上がってきて、その生々しい肉体に対してそこにもう「生」はないという実感に「ある青年の死」の物語であるんだなということを感じた。圧倒的なリアリズムで描かれるラストシーンの中で、あの磔の肉体がいちばん、人間としての「イエス・キリスト」を感じたような気がした。

ユダの自殺は土の中に引き摺り込まれるように姿を消す演出だったのに対し、ジーザスの死は静かに命を終えていき肉体だけが浮かび上がる演出だったこともすごく興味深かったな。

圧倒的なリアリズムを追求したという謳い文句がこれほどの実感を持って染み渡るような観劇体験もうなかなかないだろうなと思う。
いつかジャポネスクバージョンも見てみたいし、全てを知った状態でもう一度エルサレムバージョンを見たいな。

ああ、これだから観劇はやめられないやと久しぶりに感じた素晴らしい観劇体験でした。

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