16_教室は畑に、音楽は食に
大好きな9月(誕生月)が矢のように過ぎ、あっという間に10月。誕生日は父母とオバたち(←育ての母たち)へ「ありがとう」を伝える日、そして今を生きていることに感謝する日になった。姪と甥が毎年描いてくれる似顔絵はやっぱりうれしい。あたらしい1年のはじまりはじまり。
School Food Forum2023に向けて
ここのところ多くの時間を割いているのがSchool Food Forum2023の準備。開催まであと1週間。お話を伺いたい方々が揃って神山町に駆けつけてくださる盛りだくさんの2日間。登壇者の皆さんとのミーティングはもちろんのこと、フライヤー制作、広報や周知、会場となる施設の設営や機材手配、オンラインの配信設定、音響機器の確認、フィールドワークへの移動手段の調整、書籍の手配、食事会のメニューやオペレーションの調整、動画・写真撮影の確認…多岐に渡る調整や微調整やさらなる調整(笑)…始まる前から皆さんに感謝の気持ちしかない。
フォーラムの最新情報は上記リンクより。
このフォーラムを通して自分自身は何を考えたいのか、伝えたい内容はどんなことで、今はなにで困っているのか(壁は何なのか)を言葉にしておきたいな…などと思いはじめたら、根っこにある「食」への関心や執着?がどうやって芽生えてきたのかを整理する必要があると思った。20年前まで遡ってみようと思う(!!)。
自分ごとの給食話
かつて小学校の教員だったわたしにとって、給食は自分ごとだった。自炊がまったくできない時にも「給食さえ食べていれば大丈夫」と何度も給食に助けられ、支えられてきた。
教員になって5年くらい経ったころ、同僚が炊いてきてくれる玄米がすごくおいしくてハマった。そのおいしい玄米がどうつくられているのかを調べているうちに、食べものの背景(作られ方や作り手)について知る機会が増えた。すると、毎日給食で出てくる食材についても知りたくなる。仕事で「給食物資選定委員」という役まわりになり会議に出向いた。勤めていた地域の給食は、13校の小学校と6校の中学校の給食を2カ所の給食センターで調理し配送していた。当時、栄養教諭という役職ができたばかりで食育の授業にも力を入れていた記憶がある。ただ「食材の選定」については明確な基準はなかった。食材についての判断基準を持ち合わせておらず、見た目で選択するのが精一杯だった。
「(子どもの好きな)洋風の献立を増やせないか」という保護者の意見に対して、栄養教諭からは「メニューに取り入れていく」という回答。子どもたちのリクエストに応えるのは大切なことだけど、人気メニューのスパゲティナポリタン、甘いクロワッサン、フルーツポンチ、牛乳はまるでおやつのよう。できるなら、ごはんと味噌汁が食べたい。食べてほしい。当時のわたしは「良い給食ってなに?」と思い巡らせつつ、それを実際のメニューに反映させていくにはどうすれば良いのかを考えていた。
給食のことを知るために手に入れた本は「米飯」推し。通っていた料理教室の白崎裕子さんは、小麦を使うならポストハーベストの観点からも「地粉(国産中力粉)」推し。一方、外国産小麦を使ったパンが結構な頻度で登場する給食。知っていくにつれ、給食のメニューはもとよりそのシステムが成立している仕組みそのものに関心の範囲が広がっていった。
自信をもってすすめられる給食…?
教員にとって給食は指導の一環。子どもたちは給食時間に、協力して配膳する方法や食事マナーなどを学んでいく。食材選定やメニューづくりについては、栄養教諭からの言葉を伝えることが精一杯。当時のわたしはそこに一番もどかしさを感じた。「通学路の田んぼでとれた新米よ!」「パンの登場回数が少ないのはね…」などと子どもたちが食べるときに一言添えたい。食べものを自分の言葉で(自信をもって)伝えたい(勧めたい)!!と思ったときに、一担任として得られる給食の情報はあまりにも少なかった。
担任という立ち位置では給食に関わることは難しい。一番近くて家庭科担当とか給食担当。仮に担当になったとしても給食現場に入ることはできない。だったらと栄養教諭の免許がとれる方法を調べてみたところ、管理栄養士の資格を取るためには4年制の大学に行く必要があった。通信制はなく通学が必要。あー難しいという結論。
現場を出て学びたいという思いは募り、(給食とはまったく関係のない)支援教育を学ぶことになったのが教員生活の第2章(割愛)。
納得できる食のあり方
料理教室「白崎茶会」を主宰する白崎裕子さんとの出会いは、大きなターニングポイントだった。
一時期 7kgくらい体重が減ってしまったとき、肉が食べられなくなっていた。野菜をおいしく食べられる料理を学びたいと探していたとき見つけたのが「白崎茶会」だった。初めて教室に行った時の衝撃はすごかった。食べるものすべてが想像を超えるおいしさだったのだ。餅を切ってチーズ(もどき)にするという独特の作り方も科学実験のよう。限られた食材(植物性)だけでこんなにも豊かな食卓がつくれるのか!と新しい世界に出会った瞬間だった。そして、納得感があった。なぜその食材を使うのか。なぜこのタイミングで塩を入れるのか。なぜこの切り方なのか。根本を知れば、あとは自分で考えられる。応用が効く。その余白のあり方はとても大切だと感じた。生徒(学び手)としてその場にいられることが、仕事にもプラスに働いた。
食卓にあがるすべてを自分の手で作れるようになりたい一心で、教室で教わったメニューは自宅で何度も作り、焼いたパンやお菓子は方々へ配った(付き合ってくれた人たちありがと!)。あの原動力は「自分の手でつくれる」という喜びと楽しさだった。
門外不出(教室でしか手に入らない)と思っていた白崎レシピが、今やコンビニで買える雑誌に掲載されているという時代の流れ。現地(葉山)に行かずともオンラインでレクチャーを受けられる身近さ。たった10数年で世界が激変していることを思うと、これから10年先もまったく予想できない。
白崎先生に勧められ「免許皆伝パン先生クラス」を受講したのが2015年。これがほんとのターニングポイント。当時はパン先生になる気も教員を辞める気もゼロだったのに、1年後には仕事を辞め、徳島へ帰り、借家でパン教室を開いた。人生って、予測不可能。ホームページは2年以上放置されているけれど、今見返しても「宝物」だと思ってる。
教室から畑へ、音楽から食へ
教員になって4年目のとき、音楽科の授業を通して子どもたちの成長を見守っていこうと決めた。研究テーマは「友だちと心をつなぐ音楽指導」。子どもたちと出会い、音をあわせることで広がる楽しさを知れたことは大きな喜び。当時使っていた歌集のタイトルが「歌はともだち」。とてもいい。年間50曲くらいの歌を難なく覚えてしまう子どもたちにも可能性を感じた。ほんとうに、歌はともだちなんだよね。
あれから15年…教室という場が畑や田んぼに変わり、歌は食になった。扱うものは変わったけれど、見たい子どもの姿は変わらない。それぞれが体験や経験を重ねながら〝自分〟を育んでいける場をつくりたい。
わずかな手応えとともに
教員を辞めてパン先生をしながらフードハブ・プロジェクトに入り、「みんなでつくる」プロセスを大切にしたいと願うようになった。このくだりは以前も書いたので割愛。
迷いの渦中にいた2021年9月から12月にかけて、全3回の「神山の食農教育をそだてる勉強会」を開いた。農体験のプログラムを主活動においていたわたしたちには「食育」より「食農教育」という言葉の方がフィットした。勉強会では「食農教育」が辿ってきた歴史を知った上で、NPOで取り組む活動のイメージをつくっていきたかった。ゲストと話を交わしながらイメージを膨らませ、足場を固める時間にもなった。そんな準備期間を経て、2022年3月 NPO設立。そして、今回のフォーラム開催。
結果として手応えのあるものごとになると、次に進んでいける。目の前のことから考えていくやり方は変わらずとも、対象や範囲はこれから変わっていくのかもしれない。
「みんなでつくる」仲間たち
卒業生も仲間。社会人講師として勤めている城西高校神山校では、お弁当プロジェクトからまめのくぼプロジェクトまで生徒たちと多くの活動をともにしてきた(現在進行形)。2023年3月に卒業して島根県の大学で学ぶ〝すなっち〟が友人らを連れて神山に来たのは先月。前情報を与えられるわけでもなく「人に会ってほしい」と神山まで連れてこられたという友人たち。この日が4日目の滞在だという神山町について思い思いに話してくれた。大学1年生の彼らの言葉は、率直。島根で自分たちの活動をよりよくしようと考えていることに元気をもらった。
昔も今も多くの子どもたちに接してはいるけれど、学校を卒業した後のことは知る術がない。どこかで元気に過ごしているだろうな、と思える人たちが多いことはこれまたしあわせなことだと思う。
帰り際にすなっちからもらった「すだちシロップ」は、あゆハウス(高校時代すなっちが暮らしていた寮)で仕込んだらしい。毎日自分たちで料理しているあゆハウスの寮生の生活力って、一生モノ。すてき。
彼らは今「みんなでつくる中国山地」という活動にも関わっているらしい。〝みんなでつくる〟がここで繋がるとは!関係ないけど、関係ある。