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何を言ってるか、ではなく何をやってるか。だけども、何故、何を、どの様にを無くして意味はなし。

机上の空論に意味はないと言われます。実践してこそ、成果に結びつけてこそ、理論やシステムの価値が認められることを誰しも知っています。要するに行動と結果が伴わないとダメ。
同じ文脈で、どんなに立派なことを口にしても、実行できない人は、誰からも信頼を得ることができませんしリーダーシップを発揮することは出来ないと言われます。組織や社会では常に何を言ってるか、ではなくて、実際に何をやっているか。が問われます。

やりゃいいってもんじゃない。

実践してこそ、意味や価値がある。と、最近とみに耳にするようになりました。先日の学生による探究学習の成果発表のイベントでも「実践」という文字がスライドに大写しなっていて、とても頼もしく感じました。
しかし、多くの人の口から、その言葉を聞くたびに、そこはかとない違和感というか、ふとした疑問が湧きます。
「口ばっかりは言語道断だけど、とは言え、やればいいってもんじゃないよね。」と心の中であまのじゃくな私がつぶやきます。
そんな時、いつも思い出すのは「海賊と呼ばれた男」で小説や映画となり、世代を超えてその偉業が知られるようになった出光興産の創業者、出光佐三氏の言葉です。
出光佐三氏の半生と、その語録を収めた「反骨の言霊」には「概念を実践で裏打ちしてこそ、知恵や信念が生まれる。」もしくは「概念を学ばずに、動き回るのは行動ばか」との厳しい言葉で、まず腰を据えて学びを得てから実践に取り掛からなければ、意味がないことを厳しく戒めておられました。
確かにその通りだと思います。

本質的な学びはどこに?

では、持つべき概念とは何か、一体何を学ぶべきなのか?との問いがその先に浮かんできます。同時に、何のために?とどの様にして?との問いも。
出光佐三氏は、確固たる信念を持てるような学びを得てから実践に踏み込めと言われています。
この広い世界に学ぶべき事は、数限りなくあるのは間違いないし、社会に出て活躍するプロフェッショナルになるには、専門的な知識を深く身に付ける必要があります。学生時代に受ける教育は、おおよそ、その準備段階の基礎的な知識を身に付ける場と言っても過言ではありません。
しかし、人生を生きていく上での信念を醸成するような学びが、今の学校教育で実地されているかと言うと非常に疑問です。私を含め、今の社会を構成している大人たちは、本質的な学びをしないまま大人になってしまっているのではないかと思うのです。ひょっとしたら、私の違和感や疑問はここに端を発しているのかもしれません。

社会を良くするのが学びの目的では!

人として学ぶべき本質とは一体何か?非常に難しい問ではありますが、一言で言うと「人の道」ではないかと私は思っています。技術が進化し、テクノロジーが人々の暮らしを大きく変えたと言われますが、根本的な人の営みは10,000年前から大して変わってないとも言われます。
猿の一種の動物から、地球の覇者に成長する過程で、人間が行ったのは火を使うとか、言語を司ったとか言われますが、根本はコミュニケーションをとって社会を形成することでした。人と人とが交わり、力を合わせることで、他の動物には出来なかったことを次々と実現させ、今の文明や文化を紡ぎ出してきたのは間違いありません。
そこを本質と捉えるならば、私たちが得るべき学びは、いかに社会を良くするか、それを構成する人の幸せをいかに実現するかになります。人類史上、未だに実現されたことがない、自由、平等、平和な世界こそ人類の共通の望みではないでしょうか。
人の苦しみや悲しみを解消することこそが学ぶことの目的であり、それを明確に方向づけるあり方こそが得るべき学びとなるのではないでしょうか。

学ぶべきは結局、時代を超えて変わらない原理原則

論語の中にある「本末転倒」と言う言葉は、人としてのあり方を本学とし、財を成すなどの方法論、やり方を末学と定めて、倫理や道徳、利他の心等々、人としてあるべき姿を忘れて、蓄財や快楽への欲求に没頭することを戒めています。人が社会を形成し、持続継続及び発展するには、本学が欠かせないと孔子は繰り返し訴えられています。
古の飛鳥時代から戦前までの日本では、時代は移り変われども、中国から渡ってきた四書五経が学問の中心でした。四書とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』をいいます。江戸時代は朱子学が学問の中心に定められ、明治維新の頃は陽明学がもてはやされましたが、それらも全て四書から派生した解釈です。3千年前から人の在り方を説いた学問が今もなお綿々と伝わり、今も学ばれているのには本当に驚かされますが、論語に書かれているのは今も色褪せる事ない人と人の交わりにおける原理原則です。

魂を込めた実践

実践の重要性は万人が知っています。そして、実践は目的があってこそ意味があるのも自明。目的が個人的な願望や欲望を満たすものであれば、その実践に共感する者はおらず、誰もその意味を認めません。
実践は常に本学に基づく人の幸せを願うものであるべきだと思います。そして、人が社会で生きるには人との関係を構築することから逃れることは出来ません。一貫性のない、言うこと、やる事、目的がコロコロと変わる人に誰も信頼も信用も置いたりしません。
また、目的が良くても、やってるふり、腰の入っていない実践、三日坊主の人や事業、プロジェクトには誰もリスペクトしません。魂の込もった実践でなければ結局意味がないのです。人生は、魂を磨く修行の場である。と稲盛塾長は生前、よく口にされておられましたが、やはり、やり方ではなく、在り方を律する学びこそが根底にあるのです。


自律社会からの要請

今、何故に実践という言葉が盛んに使われるようになっているのか、そして、その実践のクオリティーが問われるようになったのか?その答えは時代の要請ではないかと私は感じています。
オムロンの創業者、立石一真氏が50年前に発表した未来予測、SINIC理論ではこの20年、今年までを最適化社会、来年の2025年以降を自律社会だと予測しています。今年は本格的に生成AIが社会実装され、あらゆるデーター処理が一瞬で的確に行われます。これまで人間が行なってきたことを高精度のAIが処理する世界はまさに最適化と言えるでしょう。また、AIにできない分野については、机上の空論ではなく、実践が重視されることで、社会実装が進みます。それを、自律社会では更に本質的な価値のある事業やプロジェクトになるように、在り方を見つめ直し、魂を磨くことが改めて重要視されることを指し示しているのではないかと思うのです。在り方を正すことこそ、自律に他なりませんし、それに多くの人が気付き、スタンダードになった時、人間は成熟度を1段階高め、自律社会を実現するのではないかと思うのです。

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在り方を見つめ直し、本業そのもので社会課題を解決する研究と実践を行っています。ご興味ある方はお気軽にアクセスください。

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鹿児島にて新しい時代のビジネスモデルについて話します!

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