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善意が先行すると忘れがちなこと

この前「裸でも生きる~25歳女性起業家の号泣戦記」(講談社+α文庫)を読んで、改めて「商品を売る」ということを考えさせられました。

著者は、バングラデシュでジュートという植物を使ったバッグの販売を決意し奮闘しているのですが、その過程でフェアトレード商品について下記のような考えを持ちます。

いわゆるフェアトレードと呼ばれる商品を生産している社会の底辺にいる人たちは、悪い品質でも先進国のバイヤーを介して、かわいそうだからという気持ちで消費者に買われ、結果、満足にはほど遠い商品は、使われずにタンスにしまわれてしまう。

ビジネスはビジネス。利益が出なけりゃやっていけない。社会貢献も何もない……ということ。「利益第一」になるという意味ではなくて、NGOではなく、「かわいそうだから買ってあげる」商品でもなく、商品として勝負すると決めたのだから、価格、品質、デザインで勝たなければ、生き残れないという当たり前の現実だった。ビジネスの世界で戦うと決めたのに、「社会的な意義」をアピールすることは、そういった要素に頼ってしまっている証拠だ。「社会的な意義」を商談に持ちこんで、それでモノを売ろうとする自分の根性に、甚だ嫌悪を感じた。モノの意味や、心のコアにあるたくさんの熱い想いを、社会に伝える場や方法はたくさんあるわけで、卸先や取引先へ伝えるべきものは、まったく別ものだ。

自分も小売りに関わっている身として、感じるところが多々あります。私も社会課題解決に興味があり、フェアトレードには大きな関心を持っています。現場ではなかなか売れないフェアトレード商品ですが、その理由はここにあるんだろうなと。結局、フェアトレードや社会課題解決には大多数の人はそんなに興味が無くて、単純にその商品がいいかどうかが重要なんだなと。

誰かを支援したい、どこかの国を支援したいという気持ちは素晴らしいものだと思います。ですが、人の哀れみや善意を頼りに商品やサービスを作ってしまうと相手の支援や気持ちが途切れてしまえば続かないものになってしまいます。そういう側面を売りにするのもありですが、それがメインになるのではなく、あくまでも品質が優れているというのがメインでなければなりません。フェアトレードを扱う人たちは自分も含めて、「誰かを助けたい」という気持ちが先行してこのことがスポッと抜け落ちてしまっているのではないかなと思います。

ただ品質重視とはいえ、商品の生産は途上国や貧困国で行われています。設備や技術が不十分な中でどこまで品質を追求できるのかが大きな課題だと感じます。それに取り組もうとするメンバーの熱量やセンス頼みでは、これまた持続性がありません。うまくいっているところは、どう現地の人たちの熱量や技術を上げているのか、仕組み化しているのかというところを今後は追ってみたいと思います。

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