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たちよみ『話が通じない相手と話をする方法』監訳者解題(by 藤井翔太)

2024年2月2日に発売する『話が通じない相手と話をする方法──哲学者が教える不可能を可能にする対話術』(ピーター・ボゴジアン+ジェームズ・リンゼイ著)の監訳者・藤井翔太さんによる「監訳者解題」を公開します。

分断と二極化の時代、考えが異なる人とも礼節と共感を保って会話・対話をするにはどうしたらよいか? 本書はそのすべてを網羅した実践的マニュアルです。しかし、本書の著者ふたりは米国の学術界・言論界でトラブルメーカーとしても知られる存在。本書をいかに受け止め、活かしていけばよいか、藤井さんに語っていただきました。


はじめに

本書は、Peter Boghossian & James Lindsay, How to Have Impossible Conversations: A Very Practical Guide (Da Capo Lifelong Books, 2019) の全訳である。原著のタイトルを直訳すると、「不可能な会話を行う方法──非常に実践的なガイド」とでもなるだろうが、内容と目的、そして筆頭著者であるピーター・ボゴジアンの学術的背景とそれに由来するアプローチをより明瞭なものにするために、邦題は『話が通じない相手と話をする方法──哲学者が教える不可能を可能にする対話術』とした[1]。

全8章から成る本書は、その名が示す通り、自分とは極端なまでに異なる見解の持ち主と節度をもって対話を行うことを目的とした、具体的・実践的な方策を示すマニュアルである。全体の概要を記した第1章に続き、どんな会話でも守るべき基本的な原理を示す「入門」(第2章)に始まり、「初級」(第3章)、「中級」(第4章)、「上級」(第5章)、「超上級」(第6章)と段階を踏んでいき、最後は凝り固まった思想の持ち主(イデオローグ)と対峙する方法を示した「達人」(第7章)レベルの技法が扱われる。また、本書で紹介される計36のテクニックに合わせて、実際の会話ですぐに使うことができる具体的なセリフやテンプレートも豊富に提供されている。政治や宗教における見解や立場をめぐる左右の分断が問題視される時代において、「うまく議論し、対立をほぐして、穏やかに説得する方法」(リチャード・ドーキンスの推薦文より)を提示する試みとして、本書は世界的にも大いに注目を集めている[2]。 

著者について

本作は、対照的な背景を持つ二人の人物によって書かれたものだ。筆頭著者のピーター・ボゴジアン[3]は、アメリカ合衆国出身の哲学者・教育者である。ウィスコンシン州にあるマーケット大学(イエズス会系)を卒業(心理学専攻、哲学副専攻)した後、フォーダム大学で哲学の修士号を取得、続いてポートランド州立大学から教育学の博士号を授与され、2021年に辞職するまで同大学哲学科で長く教鞭をとった。キャリア初期にはルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインとチャールズ・サンダース・パースの意味論を扱う言語哲学に関する論文を発表している[4]が、業績の多くは教育哲学の学術誌に発表されていることから、ボゴジアンの専門領域は(自称しているわけではないものの)「教育哲学」だと言って差し支えないだろう。二人目の著者ジェームズ・リンゼイは、保守的な見解の持ち主として知られる、アメリカ合衆国出身の文筆家・文化批評家である。テネシー工科大学で学士号(物理学専攻)・修士号(数学専攻)を得た後、テネシー大学ノックスビル校から数学の博士号を授与されている[5]。学位取得後はアカデミアには残らず、言論プラットフォーム「New Discourses」を創設し、人気ポッドキャスト番組「The Joe Rogan Experience」に出演するなど、文筆・講演活動を生業としている。

この経歴だけでは二人の接点が見えづらいが、両者ともに、宗教的信仰をはじめとする非合理的な信念の持ち主との付き合い方に並々ならぬ関心を抱いてきたという共通点がある。ボゴジアンの方は、知識の本性を探究する哲学の分野である認識論を日常生活に応用する手法「路上の認識論」(Street Epistemology)を考案し、古代ギリシアに起源を持つソクラテス式問答法に基づいて、囚人向けのクリティカル・シンキング教育に関する研究[6]を行い、それらの成果を盛り込んだ『無神論者養成マニュアル』という著作を発表している[7]。リンゼイもまた、有神論を批判する著作を複数発表しているほか、教育哲学に関する学術論文をボゴジアンと共同執筆した実績もある[8]。二人の協働プロジェクトの中でも最もよく知られているのは、いわゆる「不服研究事件」(Grievance studies
affair)だろう[9]。人文学研究の質低下と政治化をもたらした元凶はポストモダニズムだと考える二人は、イギリスの文筆家ヘレン・プラックローズの協力のもと、ポストモダン系の論者が唱えそうな荒唐無稽な主張をでっちあげ、それを支持するエセ論文を偽名で大量に執筆し、それを査読付き学術誌に応募して実際に掲載してみせるという、過激なプロジェクトを実施したのである[10]。本書の著者二人はこのように、学術的・政治的な主張のみならず、「お騒がせもの」な気質も似ていることから、意気投合したのだと推察できる。

ピーター・ボゴジアン+ジェームズ・リンゼイ『話が通じない相手と話をする方法――哲学者が教える不可能を可能にする対話術』藤井翔太監訳+遠藤進平訳、晶文社

本書の特徴

大胆な行動で知られる哲学者と保守的な言動で有名な文筆家が推奨する効果的なコミュニケーション術──この特徴だけを聞けば、何か常軌を逸した過激な手法を想像する人が多いかもしれない。しかし、本書の内容は驚くほど常識的かつ良心的、そして何よりユニークなものである。哲学者が書く一般向け著作は多くの場合、次のいずれかの類型に当てはまるものだが、本書はそのどれにも当てはまらない。

  1. 特定の主義・主張を、哲学・倫理学の議論に基づいて推奨もしくは批判するもの[11]

  2. 自説を効果的に表現し、相手の説に対する優位性を示すためのディベート術やレトリック技法を紹介するもの[12]

  3. 論理学や科学哲学の議論・概念に基づいた、クリティカル・シンキング技法を紹介するもの[13]

  4. コミュニケーションの本性や構造を、言語哲学的に考察するもの[14]

本書はこれらとは対照的に、著者たちの政治的見解を他より優れたものとして推奨するものでもなければ、自説を無理やり対話の相手に飲み込ませるための技法を説くものでもない(場合によってはそのように見える/使用されうる箇所もなくはないが、それが趣旨ではない)。また、本書には論理記号は全く登場しないし、本文では必要以上の理論的考察は展開されず、テクニカルな議論は実践的なノウハウの理解に資する範囲で紹介されるにとどまっている(詳細な内容は注に追いやられている)。

では、本書は一体何を目指すものなのだろうか。著者たちは、「耳を傾け、理解し、そして徐々に疑いをもたせ」(13頁)ることが本書の方針だと述べている。この言明に加え、各技法の性質やそれらの説明に表れている彼らの価値観も鑑みると、具体的には下記のようなことが理想的な対話の光景として想定されているように思われる。

  • 対話パートナーと信頼関係(ラポール)を構築し、お互いが安心して話ができる雰囲気を維持すること

  • 自説を押し付けることは避けて、対話パートナーにとことん耳を傾け、相手の立場とその由来を可能な限り包括的に理解すること

  • 相手が固い信念・考えにとらわれているようであれば、適度な疑念を抱いてもらえるように促し、柔軟なマインドセットへと誘うこと

  • 自分自身も保持している見解・立場に固執することなく、会話を学びの機会と捉え、異なる考えの持ち主とのやりとりを通じた自己変容を楽しむこと

要するに本書のゴールは、相手を論敵とみなし、論理的にやり込めて自説の優位性を示すようなことの正反対にあると言える。むしろ目指されるのは、見解の複数性・多様性を認識し、平和裏に会話が行える雰囲気を保った上で、お互いのこだわりを学びほぐし(unlearn)、健全な懐疑主義[15]を抱きつつ、場合によっては自らの信念・行為を改めることである[16]。

こうした理想的対話を目指すために様々なテクニックが紹介されるわけだが、それらの主な基礎となっているのは、筆頭著者ボゴジアンが専門とする哲学理論である。中でも、どのような条件が満たされれば人は何かを知っていると言えるのかを問う分野である認識論が術語としては頻繁に登場する。注意すべきは、本書では「認識論」という言葉が、ある個人が何をもって知識とみなすか、あるいは知識に至るための筋道として認めているかという、広義の「知識観」というほどの意味で用いられているということだ[17]。その上で、人の認識論(信念や考えの形成プロセス)を吟味し、適切な仕方でそこに介入するための一連の技法には「路上の認識論」という名前が与えられている。本書では、その具体的手法が惜しみなく開陳されているわけだ。またそこでは、優れた対話のモデルとして、プラトンの作品に描かれているソクラテスの対話術も大いに参照されている[18]。これらの二つの柱に加えて、現代哲学に登場する諸々の概念(例えば、科学哲学に登場する「反証可能性[19]」(disconfirmability)や、言語哲学における「思いやりの原理」(principle of charity))もまた、効果的な会話を理解・実践するための道具として動員されている。

本書の特徴は、これらの哲学的・思弁的な議論だけではなく、実証的な社会科学の知見もふんだんに盛り込まれている点にある。具体的には、感情心理学、社会心理学、人質交渉学などの研究がこれでもかというほどに紹介されている。これは、ボゴジアンが学部時代に心理学を専攻し、博士課程でも心理学のメンターについて研究していたことや、共著者のリンゼイの幅広い読書傾向を反映したものだろう。こうして、巷のコミュニケーション指南書の多くとは一味違う、ありとあらゆるジャンルの研究成果を総動員した、エビデンスを重視した包括的な対話マニュアルが出来上がったというわけだ。 

本書にまつわる懸念

本書は学術的な知見にもとづく体系的な対話ガイドとして書かれたと言われているし、実際にそのようなものとして読まれうる。だが、本書の信頼性を揺るがすような、無視し得ない事情があることも事実だ。次の二点がそれである。

  1. 著者たち(特にリンゼイ)が、必ずしも常に本書で示されている会話の規範を守っているようには見えないこと

  2. そもそも、著者たちが本書の内容を信じていない、つまりある種の悪戯・パロディとして書いたのではないかという疑念がよぎること

最初の点について、本書でも著者たちは過去のSNSでの投稿を反省している箇所がある(92–93頁)が、この原稿を書いている時点で、二人の発言内容はより過激になっているように見える。それに、リンゼイについては差別的な発言が問題視され、ツイッター(現X)運営からアカウントを停止されたこともあるほどだ[20]。二つ目の点については、この二人はそもそも、「不服研究事件」の仕掛け人として、もっともらしい外見をしたインチキ論文を大量に書いていたという「前科」があるわけだから、本名で発表されたものだとはいえ、本書もまた悪戯で書かれたものなのではないかと訝しがる人がいてもおかしくはないだろう。

二つの懸念のうち、一つ目については容易に説明がつきそうだ。というのも、そもそも本書は二人が共同執筆したものであるから、それぞれの著者は、自分の寄与していない部分を含む本書全体を体現しているとは限らない、と言えなくはないからだ(それが褒められたことではないとはいえ)。あるいは、著者は本書の内容が正しくかつ善いものだと分かってはいるが、意志の弱さ(アクラシア)によって実行できていない、という可能性もある。いずれにせよ、こうした理由であれば、著者の実際の言動と本書の内容に多少のズレがあったとしても、それのみで紹介されている諸々の方法の真正性・有効性が直ちに無となることはないだろう。

二つ目の懸念の方が重大かつ深刻かもしれない。というのも、もし著者たちが本書を悪戯として書いていたとしたら、それを真面目に・文字通りに受け取ることは馬鹿らしくなってしまうように思われるからだ。しかし、仮に著者たちが本書の内容を全く信じていなかったとしても、書かれた事柄の妥当性には影響がない、という議論はありうる。実際に、認知心理学者のジェフ・コールは、「不服研究事件」で投稿されたうち少なくとも一つの論文は、そこで提示された主張や参照されている実証的データがまっとうなものであるため、著者たちがどのような意図をもっていたかに拘わらず、本物の論文として通用せざるを得ない、と結論づけている[21]。本書についても同じことが言えるだろう。もし個別の技法の実在性・有効性について疑義がある場合、参照されている実証的な研究を遡って個別に確認し、内容の是非について検証してみればよい。こうして結局、著者たちの信用ならなさのおかげで、実証性という基準のありがたみにも、読者は気付かされることになる[22]。

本書の読み方

本書の特徴や著者についての注意点など諸々述べてきたが、ひとまずは虚心坦懐に(「思いやりの原理」とともに、著者の主義主張や執筆意図はカッコに入れて)本書の内容を精読することを読者には勧めたい。自らの会話規範を振り返り、本書から取り入れられるものがあればそれを実践し、すでに行っているものがあれば、それに対する理論的説明をみて理解を深めることができるだろう。その上で、本書に書かれていることを批判的に検討してみてほしい。技法として有効ではないもの、倫理的に許容できないもの、あるいは追加すべきものはどのようなものであるかを考えるのである。

他方で強調しておきたいのは、本書が素晴らしい作品だったとしても、それをもって著者たちの人格や他のテーマについての見解のすべてが優れていると捉える必要はないし、そうすべきでもないということである。そのような態度は、著者たちの推奨する「健全な懐疑主義」にも反するものだろう。

私は(そして訳者と編集者の二人も)、本書の著者たちとすべての見解を一にするものではない。それどころか、彼らの言論活動の中には倫理的に糾弾されるべきものが含まれているとすら考えている。その一方で、政治的・道徳的分断によって社会的連帯が失われ、意見を異にする人びとの間でもたれるべき対話が欠如している現状を憂い、その状況を少しでも改善しようと願う彼らの意図は本物かつ善良なものであり、尊重されるべきものだと信じている。本書のように、難しい会話を可能にするための共通の土台を提案しようという試みが、疎んじられがちなトラブルメーカーによってなされたことには、固有の意義と価値があると思う。人々が他者を有形・無形の力によってねじ伏せたり、あるいは個人的・集合的に排除しようとするのではなく、あくまで違いを違いとして保持しつつも対話を続けようという意志を諦めないこと[23]──この訳書がそのための一助となることを願うばかりである。

翻訳の経緯と謝辞

本書が成った経緯について説明しよう。藤井は大学院生のときから、北米のアカデミアにおける分析哲学の受容について関心を抱いており、「ソーカル事件の再来」とも言うべき「不服研究事件」にも当然のごとく注目していた[24]。あるとき、哲学的テーマを扱う文筆家にして、晶文社では哲学書を中心に手掛ける編集者としても活躍する吉川浩満氏に、この事件の当事者二名が会話術の本を書いているらしいと伝えたところ、「翔太さん、よければうちで一緒に出しませんか」とお声がけしてくださった。しかも、本書のアクチュアリティが失われないうちに、なるべく早急に邦訳を世に出したいというのが吉川氏のたっての希望だった。しかし、本書の分量と内容を鑑みたときに、単独で取り組むのは心もとないと藤井が感じたため、協力者を探すことにした。そこで吉川氏がQeS(クェス)の仲介で紹介してくださったのが、本書の訳者を務めた遠藤進平氏にほかならない。藤井はそれ以前にも遠藤氏が主催していた概念工学に関する研究会に参加させてもらっていた縁もあり、論理学の哲学や形而上学の専門家である彼を心強いメンバーとして迎えて、三人で翻訳プロジェクトがスタートした。

作業の進め方としては、原著出版社から提供されたWordファイルをもとに遠藤氏が訳文ファイルをGoogleドキュメント上に作成し、藤井が一章ずつ訳文に手を入れていくという方式を取った。全体の訳文ができた段階で再び遠藤氏が藤井の訳文に目を通して修正提案を行い、それを藤井が部分的に反映していった。重要な概念の訳語については三人で議論し、合意が得られた場合にはそれを、また見解が分かれたもの[25]については、監訳者の藤井と吉川氏の判断を優先して決定した[26]。初稿ができて以降は、藤井がゲラに赤入れをした上で、吉川氏が細かな表現の調整を行った。作業中の連絡手段としては、Slack 上に立ち上げたチャットグループに加え、概ね月に一回、Zoom上で近況報告も兼ねたミーティングを行い、訳文と内容について議論を行った。

本書の作業全体を類稀な忍耐力と注意力をもって並走してくれた遠藤氏と吉川氏に、最大の感謝を捧げたい。スコットランドのカフェやオーストラリアの下宿先からログインする遠藤氏と、晶文社オフィスやこの世のあらゆる書籍が詰まっているようにしか見えない書斎から登場する吉川氏のお二人と、この問題作の価値をどうしたら多くの人に理解してもらえるか、Zoom上で何度も議論を重ねたことが思い起こされる。加えて、本書を世に出すにあたり、次の方々から多大な援助を賜った。原著者の一人ピーター・ボゴジアン氏は、ヨーロッパ・ツアー中にも拘わらず、翻訳チームの三人とオンライン・ミーティングを行う機会をもうけ、こちらから投げかけた質問(無礼なものも含まれていただろう)のすべてに誠心誠意をもって答えてくださった。前著でお世話になった装丁家の宮川和夫氏は、お互いに晶文社との初めての仕事である今作でも、魅力的な表紙デザインを仕上げてくださった。そして哲学者の戸田山和久氏は、本訳書の最初の読者として全体を通読し、訳者たちの意図を代弁するかのような素晴らしい推薦コメントを寄せてくださった。みなさまに厚く御礼申し上げる。

藤井翔太

本書目次

第1章 会話が不可能に思えるとき
第2章 入門:よい会話のための7つの基礎
 ──通りすがりの他人から囚人まで、誰とでも会話する方法
第3章 初級:人の考えを変えるための9つの方法
 ──人の認知に介入する方法
第4章 中級:介入スキルを向上させる7つの方法
 ──(自分を含む)人の考えを変えるための効果的スキル
第5章 上級:揉める会話のための5つのスキル
 ──会話の習慣の見直し方
第6章 超上級:心を閉ざした人と対話するための6つのスキル
 ──会話のバリアを突破すること
第7章 達人:イデオローグと会話するための2つの鍵
 ──動かざる人を動かす
第8章 結論
謝辞
原注
監訳者解題
参考文献
索引

予約・注文

『話が通じない相手と話をする方法――哲学者が教える不可能を可能にする対話術』(ピーター・ボゴジアン+ジェームズ・リンゼイ著、藤井翔太監訳+遠藤進平訳、2024年2月2日発売)

晶文社 https://www.shobunsha.co.jp/?p=7977
版元ドットコム https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784794974099
アマゾン https://www.amazon.co.jp/dp/4794974094/

判型:四六判並製 400頁
定価:2,640円(本体2,400円)
ISBN978-4-7949-7409-9 C0010


[1] 原著のタイトルは、本文でも頻繁に言及される、ハーバード交渉プロジェクトの産物である次の書籍をもじったもの。「困難」(difficult)を超える、極端に難しい対話を形容する言葉として「不可能」(impossible)が用いられているのだと思われる。Douglas Stone, Bruce Patton, & Sheila Heen, Difficult Conversations: How to Discuss What Matters Most, (Penguin Books, 2010).
[2] 一つの指標として、2023年12月16日現在、米Amazon.com 上で原著には1100件を超えるレビューが寄せられており、平均して五段階中4.6の星評価を得ている。https://www.amazon.com/dp/0738285323
[3] 本人とZoom会議したときに聞いたところ、名前の発音は「explosion(爆発)のsionの音と同じ」だと確認できた。なお、同じ綴りのラストネームを持つ存命の哲学者にPaul Boghossianがいるが、彼の著書を翻訳した飯泉佑介氏に問い合わせたところ、著者はssを濁らず発音するのが正しいと言っていたそうである。ポールの邦訳は次。ポール・ボゴシアン『知への恐れ──相対主義と構築主義に抗して』(飯泉佑介、斎藤幸平、山名諒訳、堀之内出版、2021年)。
[4] Peter Boghossian & Erik Drewniak, “Wittgenstein and Peirce on Meaning: the Evolution from Absolutism to Fallibilism”, Diálogos, Vol. 30, No. 65 (1995): 173-188.
[5] リンゼイの博士論文の題目は、「Combinatorial Unification of Binomial-Like Arrays」。論文本体とリンゼイの略歴は、テネシー大学のリポジトリで公開されている。https://trace.tennessee.edu/utk_graddiss/723/
[6] ボゴジアンの博士論文のタイトルは、「Socratic Pedagogy, Critical Thinking, Moral Reasoning and Inmate Education: An Exploratory Study」。論文本体がポートランド州立大学のリポジトリで公開されている。https://pdxscholar.library.pdx.edu/open_access_etds/3668/
[7] Peter Boghossian, A Manual for Creating Atheists (Pitchstone Publishing, 2013).
[8] Peter Boghossian & James Lindsay, "The Socratic Method, Defeasibility, and Doxastic Responsibility", Educational Philosophy and Theory, Vol. 50, No. 3 (2018): 244-253.
[9] アメリカの大学では、学生が教員や大学を相手取って意義申し立てを行う制度として、grievance procedureと呼ばれる手続きがある。ボゴジアンらの事件の名称も、この仕組みをなぞったものだと考えられることから、現在日本語で流通している「不満研究」という訳語よりも、「不服研究」とした方が原語のニュアンスに近いと判断した。
[10] 不服研究事件の顛末については、当事者三名の種明かし的なステートメントと、山形浩生による解説を参照のこと。Helen Pluckrose, James Lindsay, & Peter Boghossian, “Academic Grievance Studies and the Corruption of Scholarship”, Areo, (October 2nd, 2018). https://areomagazine.com/2018/10/02/academic-grievance-studies-and-the-corruption-of-scholarship/ 山形浩生「訳者解説」、ヘレン・プラックローズ+ジェームズ・リンゼイ『「社会正義」はいつも正しい──人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』(山形浩生+森本正史訳、早川書房、2022年)、351–364頁。
[11] 例:ピーター・シンガー『なぜヴィーガンか?──倫理的に食べる』(児玉聡+林和雄訳、晶文社、2023年)。
[12] 例:浅野楢英『論証のレトリック―古代ギリシアの言論の技術』(筑摩書房、2018年)。
[13] 例:植原亮『思考力改善ドリル──批判的思考から科学的思考へ』(勁草書房、2020年)。
[14] 例:和泉悠『悪い言語哲学入門』(筑摩書房、2022年)。
[15] 健全な懐疑主義という理念は、次の著作でも推奨されている。伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(筑摩書房、2005年)。
[16] 柔軟でオープンなマインドセットという理想や、鶴見俊輔に由来する「学びほぐし」(unlearn)という概念を教育哲学の文脈で検討している著作には、次がある。佐藤邦政『善い学びとはなにか―〈問いほぐし〉と〈知の正義〉の教育哲学』(新曜社、2019年)。
[17] 知識の定義や本性を扱う哲学の一分野としての「認識論」(epistemology)について、専門家が執筆・翻訳した次の教科書では、主流となっているものを含め代表的な議論や学説が網羅的に紹介されている。ダンカン・プリチャード『知識とは何だろうか──認識論入門』(笠木雅史訳、勁草書房、2022年)。
[18] ボゴジアンが別の論文で参照しているジェームズ・ダイのまとめによれば、ソクラテスの対話には次のような構造がある。「(基本的概念に対する)驚きと問いの提起→それへの暫定的な答え(仮説)の提示→仮説の吟味・批判(エレンコス)→仮説の受容もしくは棄却→信念・行為の変容」。ダイのまとめと、ボゴジアンが別途依拠しているグレゴリー・ヴラストスによるソクラテス的対話の構造についての論考は、次の通り。James Dye, “Socratic Method and Scientific Method”, (1996). http://www.niu.edu/~jdye/method.html ;Gregory Vlastos, Socratic Studies (Myles Burnyeat ed., Cambridge University Press, 1994), p. 11.
[19] 「反証可能性」を示す語としてfalsifiabilityではなくdisconfirmabilityが用いられていることについては、本書第5章の原注(20)を参照。
[20] リンゼイのアカウントは停止(サスペンド)されていたが、イーロン・マスクによる同サービスの買収後、2022年11月に復活した。
[21] Geoff G Cole, "Why the "Hoax" Paper of Baldwin (2018) Should Be Reinstated", Sociological Methods & Research, Vol. 50, No. 4 (2021): 1895-1915.
[22] 哲学者の永井均は、(実証的・思弁的の別を問わず)およそいかなる言説であれ、話者・筆者がその内容にコミットしていないことも可能であるどころか、そうであらざるを得ないことこそが言語的コミュニケーションの可能性の条件であるとし、その特性を「超越論的なんちゃってビリティ」と名付けている。次を参照。永井均『〈魂〉に対する態度』(勁草書房、1991年)、永井均『遺稿焼却問題 哲学日記2014–2021』(谷口一平+吉田廉編、ぷねうま舎、2022年)。
[23] 「会話を継続すること」というリチャード・ローティの道徳的要請や、正義や公正といった観念に新たな解釈を与えたジョン・ロールズの政治哲学などを導きとして、ある種の「会話の倫理学」を展開したものとして、次の著作が啓発的である。朱喜哲『〈公正〉を乗りこなす──正義の反対は別の正義か』(太郎次郎社エディタス、2023年)。
[24] ソーカル事件やその背景を解説したものとして、科学哲学者による次の文献が参考になる。ジェームズ・ロバート・ブラウン『なぜ科学を語ってすれ違うのか──ソーカル事件を超えて』(青木薫訳、みすず書房、2010年)。
[25] 例えば遠藤氏は、moralityを「生き方」、civilを「理性的」と訳すことを提案していた。
[26] 本書の日本語タイトルや、Unread Library Effectの訳語として「背表紙効果」を提案したのは、吉川氏である。