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【さきよみ・あとがき】尾久守侑『倫理的なサイコパス――ある精神科医の思索』より「あとがき」掲載!

5/24刊行の『倫理的なサイコパス――ある精神科医の思索』は、H氏賞を受賞した詩人としても活躍する精神科医・尾久守侑(おぎゅう・かみゆ)さんが、心と頭と診療をめぐる思索をユーモアたっぷりに綴った臨床エッセイ。
発売よりひと足先に、本書のエッセンスがぎゅっとつまった「あとがき」を公開します。

あとがき

 
 いつの間にか精神科医になっていた。もちろん記憶がないわけではない。医学部を受験したことも覚えているし、医師国家試験を受験したことも覚えている。研修医のときは忙しかったからかやや記憶が薄れているが、それでもちゃんと脳内に残っている。私は精神科医になりたいと思って精神科医になった、はずであった。

 しかし、こんな仕事だとは正直思っていなかったところはある。現場は怖い。大袈裟な言い方かもしれないが、傷ついた人がやってきて、その人に何らかの施しを身一つでしなければならない。毎回どんな人かもわからずに初診が始まる。知識や経験の蓄積で理解できる傷つきもあるが、人それぞれなので最後の枝分かれを間違えて傷つけてしまうこともある。時にはこちらの存在が危機に立たされる。1日中嫌な気持ちを引きずることも、何ヶ月も不安なままで生活することだってある。

 ある程度までは、”医療”っぽくやることが可能だ。例えば薬を出したり、検査をしたりすれば、それらが私と患者さんを仲介してくれるし、”医者”役をやっていれば済むことも少なくない。しかし、どうしてもある場面では役ではなく”個”として患者さんに接さないといけない。応答を求められたときに思わず反応するのは、医者としての役割ではなく”個”だからだ。これは精神科医をしている以上は誰でも同じなのだが、自分が”個”で接している瞬間があることをあくまで認めない医師も中にはいる。

 関係のなかに”個”を晒していると、当然その”個”は、他の職業を選択していたら遭わなかったはずのさまざまな感情に晒され、影響を受け、そして不可逆に変質する。よく言えばそれは「精神科医になったことで人間として成熟した」といえるのかもしれないが、「負わなくて良かったかもしれない傷を沢山負った」ともいえるかもしれない。今見えている景色と、精神科医になる前に見えていた景色は全く違うもので、だから自分は一体いつ精神科医になったのだ?と時々疑問が出てくるのだと思う。

 時々なぜ自分は詩を書くのだろうと思うことがある。今の話から連想していくと、不可逆に変質してしまった、そして今後もさらに変質する自分を詩という形式で残しておきたいと思ったのかもしれない。もちろんこれは、詩を書く一つの側面にすぎないのだが。

 『倫理的なサイコパス』という本書のタイトルは私が考えたものだが、サブタイトルの『ある精神科医の思索』は編集部が考案したものである。「思索」というのが正直ちょっと違うんじゃないか、どちらかといえば「連想」のほうが正確なんじゃないかと咄嗟に頭に浮かんだのだが、「ある精神科医の思索[poetry writing]」と考えれば、むしろこちらの方が私には合っているのではないかとも思えた。そういう意味で、このエッセイ集も私のひとつの詩集の形なのかもしれないし、変質した現時点での自分を残すためのものになったのかもしれない。

尾久守侑『倫理的なサイコパス』「あとがき」より抜粋

【目次より】
◆第1章 倫理的なサイコパス
倫理的なサイコパス / 犠牲者の臨床 / ヨコヤとの戦い / ドロップアウト / 傷つき傷つけながら生きるのさ / 病気を診ずして病人を診よ / 守護霊論 / 七瀬ふたたび / いいひと。 / 思春期とSNSと私
◆第2章 破れ身の臨床
破れ身 / ほとんどが無名 / 歯が命 / 多重関係 / 二刀流幻視 / 兄役 / 先生のツイートみてます / ルーティン / 美容外科医に学ぶ / 「ありのままの姿」役
◆第3章 知らんがな、社会問題
社会問題って何 / メンタルかかりつけ医をつくる / MBTI / 「場」がなくなる / 身体に合わせる / 強制医療の悩み / 精神科医の書く一般書について / 道中不適応 / サプライズ / サイレントマジョリティー / 高いいね血症

尾久守侑『倫理的なサイコパス――ある精神科医の思索』(晶文社)は、
5月24日発売予定! 本の情報はこちらから↓
https://www.shobunsha.co.jp/?p=8227