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【題未定】ずっと写真が嫌いだった話【エッセイ】

 写真を撮られるのが苦手だ。写真が嫌いになったのはいつからだろうか。どうして嫌いになったのかは覚えていない。少なくとも幼少期にはそんな風に思っていた記憶は無いので、おそらく思春期ぐらいからだろうか。思春期に太っていたため、もしかしたら自分の容姿に対するコンプレックスから写真を嫌いになったのかもしれない。 

 とにもかくにもそうして撮られるのが嫌いになると、必然的に写真そのものやカメラからも足が遠のいてしまう。昔からガジェット好きな私でもカメラを愛好することは無かった。一時期はデジカメを買ってみたが、さほど使わずにタンスの肥やしになった。携帯電話が大学時代に普及し、写メールがヒットしたときも自撮りをすることはなかった。そもそも友達とわいわいすることの少ない私にとって、写真を残す文化はやや縁遠かった。

 自分と写真の関わりを振り返るとどれぐらいになるだろうか。幼児期、あるいは小学生のころはカメラがそこまで普及していなかった。写真を撮ることは特別で、写真館に行くか、そうでもなければ趣味でカメラを持っている人が撮るか、という世界だった。私の記憶では祖父がカメラを持っていて、写真を撮ったり、8ミリで映像を撮っていた記憶はうっすらと残っている。

 写真が身近になったのは小学生になってからのように記憶している。調べてみると「写ルンです」の発売は1986年、私が5歳の時である。つまりこの時点まではカメラや写真は特別なツール、行事であり、一部の愛好家の専有物だったようだ。子供と一緒にちびまる子ちゃんを見ているとまる子の親友、たまちゃんのお父さんがカメラで娘を撮るシーンが出てくる。物語の舞台である1970年代においては特別な存在だったのではなかろうか。1990年代に入ると使い捨てカメラが市民権を得ていたように思う。小学校高学年や中学校時代になると、修学旅行などでほとんどの子供が「写ルンです」を持ってきていた。当時からひねくれていた私は、写真が苦手で撮られたくないあまり「写真に残すのではなく、頭の中に残すのだ。」などとうそぶいていた。

 大学に入るころにはデジタルカメラが一般化していた。友人がソニーのサイバーショットを自慢していたことをいまだに覚えている。私もそれに触発されてからか大学時代にキャノンのデジタルカメラを買った記憶がある。カメラを持っている姿に何となく憧れもあり、レンズがせり出すタイプのカメラが欲しくなったのだ。とはいえ写真が好きではない私が長続きすることはなく、というよりもろくに使わずにどこかへ行ってしまった。どうにも写真として記録を残しておくことに価値を感じなかったのは大きいのかもしれない。加えて言えば、撮った写真をともに楽しむ人がいなかったのは大きい。だから写真を撮るモチベーションも湧かないのだ。

 最近、またカメラや写真に嵌っている。もちろんこれが一過性のブームの可能性もあるが、これまでと異なる心持ちがあるのも事実だ。一つは子供が生まれたこと。撮る対象が明確に存在するのは大きい。そしてもう一つは死を意識し始めたことだ。私の母は50代半ばで鬼籍に入ったが、私自身もその年まで10年ぐらいになろうとしている。その中で見たもの、景色、興味を持った物、事を少しでも残したいと思ったからなのかもしれない。あるいは、覚えていると思っていたあの景色が想像以上にかすみがかった記憶になっていることに気づいたからだろうか。

 今でも写真を撮られるのは苦手だ。自分を見るのは毎朝の鏡の前だけで十分で、それ以上に見たいと思えるほどの容姿は持ち合わせていない。だが、写真を撮ることに関しては考えが大きく変わった。シャッターを切ることで残せるものがある、と今は思っている。

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