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【題未定】カメラと写真という最も敷居の低い創作活動は大人が始める趣味として最適なのかもしれない【エッセイ】

 創作活動をしたい、という欲求は誰にでもある。自分の中にあるものを表現し、それを誰かに見てもらうことで理解や共感を得たいという気持ちは人間が根源的に持った欲求の一つなのかもしれない。

 しかし一方で創作活動を行うのは難しい行為でもある。正確に言えばその行為自体は誰にでも可能だが、成果物をきちんと残すというのはある程度の基礎知識、技術が要求される。したがって仕事か趣味かを問わず創作活動で成果が可視化されるためにはそれなりの準備期間が必要となる。それを独学で賄うか、あるいは学校などの機関を利用するかは様々だが、少なくとも金銭的コスト、時間、そしてある程度の努力が不可欠となる。

 例えば私が書いているこうしたnoteの文章もその一つだろう。この文章が名だたる文豪や職業作家のそれと比較して取るに足らない駄文であることは他者の評を待つまでもない。しかし、少なくとも文章を書きあげるためにはそれなりの国語力、文章構成力、それに時間も求められる。LINEなどの短文のやり取りではないわけで、1000字を超える文章を書きあげることに抵抗を感じる人も少なくない。事実、600字の小論文を書き上げられない高校生は日本中に存在する。

 音楽や美術作品となるとさらにその傾向はさらに顕著だろう。ノートの隅の落書きならばまだしも、一枚のキャンバスに絵を描き上げるのはその作業にかかる時間や技術もさることながら、それを成し得るための研鑽は10年単位で考えるものだ。音楽の場合は、幼少期からの技術的蓄積も他の創作の比ではない。字も読めない幼少期からピアノを何年も習っているケースも少なくないし、人前でそれなりの成果を発表できるまでにはかなりの期間の練習が必要とされるだろう。

 こうした芸術活動の場合、大人が手習いとして初めても続かないことがほとんどだ。仕事の合間や余暇を使い、自発的かつ自己調整的に活動を継続することは非常に困難だからだ。むしろ成人してそうした活動で心得の無い状態から成果物を表現できるレベルまで持って行けた人はは称賛に値するだろう。

 そうした点でカメラという趣味は非常に初心者に敷居の低い(注)創作活動の一つと言えるかもしれない。カメラという機械を構え、シャッターを押せばそれなりの写真を撮ってしまえるからだ。もちろんプロカメラマンや写真家の撮ったそれと比較をして、比肩するようなものができるなどと言うつもりはさらさらない。私自身もカメラの初心者であり、多くのカメラ、写真愛好家の中でも底辺に位置することは重々承知している。しかしそんなずぶの素人の私の撮った写真だとしても、自身のSNSに張り、写真に詳しくない誰かに見せられる程度の質のものは創作することができるし、自分自身もその写真にある程度感動を得ることができる。これが絵画や音楽ではどうだろうか。私のような絵心も楽器経験のない人間の拙い絵や演奏をSNSに上げることは恥ずかしくて到底できるものではない。
(注)本来は誤用。ハードルが低い、の意で使用

 言うまでもないことだが、カメラや写真が程度の低い創作活動と言いたいわけではない。かつての二眼カメラや鶏卵紙の時代であれば、写真を成果物として吐き出すハードルも高かったかもしれない。しかしデジタルカメラが主流となっている現在においてはただ、大人が始めたとしてもそれなりの(自己満足の)成果物を残すまでにそこまでの金銭的、時間的コストがかからない。これは趣味や創作に全振りできない大人には朗報であろう。高価なミラーレスカメラだけでなく、スマホのカメラであったとしても、工夫さえすれば「エモい」写真はいくらでも撮影できるのだ。

 この少しの労力でそれなりの成果物を仕上げられること、にも関わらず奥が深いこと。これがカメラや写真の魅力であり、大人が始める趣味として最適な条件を満たしいているのかもしれない。

一つだけ注意をすることがあるとすれば、大人の趣味は金に物を言わせて成果物の質を上げようとしがちになることだろう。カメラの場合も高い機材であるほど画質鮮明、ボケ感をたっぷりの演出が可能であり、ややもすれば機材沼に嵌ってしまう可能性は高い。

とはいえ、あくまでも機材は技術の無さをカバーしてくれるものであって、作品の質を担保するものではない。この言葉は自分自身、肝に銘じておくとしよう。

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