『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んで考えるその先

絶賛話題の三宅夏帆さん著書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読みました。
労働と歴史を紐解くという視点が非常に面白かったですし、その歴史もいわゆるただの歴史の羅列にはなっておらず、著者の視点と考えのもとにひとつ一つを繋げて語られていたことにより、最初から最後まで興味深く読むことができました。

とはいえ、新書というフォーマットの制限もあったでしょうし、気になったことはそれなりにあり、それらは↑のポストに書きました。

このnoteでは、その中でも特に気になったことをもう少し考えてみたいと思います。
読書感想という感じではなくなりそうなので、雑記として思うところを書き連ねてみます。

「半身で働く社会」になった先に起こること

この本の一つの結論は、
「全身全霊」で生活することが求められることが多い日本社会に対して、「半身」で働く社会に変わるべきなのではないかと提言している点でしょう。

ここには賛否ありそうなものの、私自身としては大賛成です。
もともと私は大学で経済学をかじっていたのですが、その中で最も印象に残っており、今の自分の思想にも大きく影響を与えていると思う「われわれの孫たちの経済的可能性」というエッセイと通ずる点を感じたからです。

このエッセイはイギリスの経済学者であるケインズが1930年に書かれたものであり、論旨は上の記事に書いてある通り、以下です。

そこでは、先進諸国の生活水準は100年後には1930年当時の4~8倍程度になっているはずで、1日に3時間も働けば生活に必要なものを得ることができるようになるだろうと予想していた。

つまり、2030年になれば、人は当時の半分以下の労働時間で過ごすことができるようになるだろうという予測をケインズはしていました。

この予測については、上の記事のように色々な指摘があるでしょうが、ここでのポイントはその点ではありません。
ポイントは、労働時間が減った結果、余暇をどのように過ごすかが問題になるとまで指摘している点です。
全編がこちらで読めるのですが、以下のようなことが書かれています。

つまり創造以来初めて、人類は己の本物の、永続的な問題に直面する—目先の経済的懸念からの自由をどう使うか、科学と複利計算が勝ち取ってくれた余暇を、賢明にまっとうで立派に生きるためにどう埋めるか。

この話を踏まえて、私がこの本を読んで最も考えたのは、
果たして、「半身で働く社会」になったとして、人々は本を読むのだろうか?結局他の身近なことに時間を使ってしまうのではないか?という点です。

おそらく、著者としてはここは論点ではないのかなと感じています。
そもそも、本を読むべきとまでは主張しておらず、もっと広く捉えて、労働は半身にして、残りの半身をもっと違うことに充てようという話と自分は理解しています。

そのため、この話は本の内容から逸脱すると思っているのですが、
個人的には考えてみたい話であり、このnoteを書くに至っています。

可処分時間の奪い合いにより、本も読まないし、新しい音楽も聴かない

そもそも人々は本を読まずに何をしてるのでしょうか?
感覚的にはSNSやYoutube、TikTokに興じているイメージがありますが、以下の調査では、時間ではなく参加率という視点ではあるものの、ほぼそのイメージ通りの結果になっていました。

全体で見れば、意外と読書をしている人って多いんだなと思いつつ、年代が若い層では、動画鑑賞やSNSを行っている人が多いことがわかります。

ここで少し視点を広げると、音楽も年を取ると新しい音楽を聴かなくなるという話を思い出します。

あくまで新しい音楽を聴かなくなるという話なので、本を読まなくなるとは少し違うとも思いますが、
ここでは、「33歳を境に人は新しい音楽を聴かなくなる」という説について書かれています。
この要因として、「単純に音楽に触れる時間が圧倒的に少なくなる」「新しい音楽に触れるための時間と気持ちの余白が少なくなっている」について触れられていて、これは本を読まなくなる事象とも繋がっていそうです。

「ノイズ」再考

著者は本が読めない状況について以下のように書いています。

本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。
仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ

ここでは、ノイズ=他者や歴史や社会の文脈と定義しています。

知識と情報の差異
情報=     知りたいこと
知識=ノイズ+知りたいこと
※ノイズ・・・他者や歴史や社会の文脈

感覚的にはこれもよくわかる話です。
こういうノイズがあるから、本が読めなくなるというのはわかるのですが、
気になるのは、ではSNSなどにはノイズはないのだろうか?ということです。
確かにパーソナライズされた情報が流れてきやすいという話はありつつも、TikTokなんてある種、偶然性の塊みたいなアルゴリズムのようにも思えて、「ノイズ」についてもう少し考える余地があるようにも思います。

音楽の視点でも、新しい音楽にはノイズがあるのだろうか?と考えると、別に曲の長さ自体は変わらないし、むしろ新しければ新しいほど文脈は削ぎ落とされている側面もあると思うので、また違った理由がありそうに思います。

ここについての個人な意見は、「知識への距離」という視点です。
仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がないという話はそうだと思うのですが、もっとグラデーションがあって、その文脈への距離が遠すぎるからこそ、触れることができない。それ故に、パーソナライズされて距離が近いSNSに興じてしまう。
こういった距離の遠近について、もう少し考えても良いのではと思ったのです。

「知識のネットワーク」に入る難しさ

そもそもこの本では、著者同様にもともと本を読んでいたが、最近は読めないという人たちを想定して書かれているように思えたので、さらに話が離れていくのですが、
本をそこまで読んでない人というのは、やはり読書へのハードルというのが大きいように思います。

最近書いた↑に関連するのですが、
当たり前の話で、本を読み慣れていれば本は読みやすいし、そうでない人は読みにくいという話はあります。
知っている話は読みやすいけれど、知らない話は頭に入ってきづらいということは速読文脈でもよく聞く話で、
それらも踏まえて、本自体がひとつの「知識のネットワーク」みたいなものだと思います。
そのネットワークに入っていくのはなかなか時間と労力がかかるように感じます、特に大人になってからは。
逆に、前に別の本で似た話読んだなみたいなことがあると、理解しやすいですからね。
ちなみに観測範囲だと、忙しい人ほど本もちゃんと読んでいるみたいな感覚もなくもないのですが、それはこのネットワークの考え方が影響しているようにも思います。

自分自身、本をよく読むようになったのはここ5年ぐらいで、自分なりの読書法が固まってきてから、ようやく色んな本を"読んでいる”感覚になってきました。
それまではほとんどと言っていいほど、本は読んでなかったんです。
なので、本を読むといっても、どこから何を読めばいいか結構迷いました。
話題になっている本や、自分がなんとなく気になった本を手に取っても、いまいち読めていない感が強かったという記憶があります。
そういった感覚は、本を読み重ねることでだいぶ軽減されてきましたが、それには5年ぐらいかかったということです。

文脈への入り口を提供すること

そういった実体験を踏まえて考えるのは、文脈への入り口をいかに提供するかということです。
やはりここがうまく機能しないと、たとえ余暇時間が増えたとて、本は読まずに、SNSに触れる時間が増えるだけなのではないでしょうか。

その時に思い出すのが、Youtubeチャンネル「てけしゅん音楽情報」です。

このチャンネルは、音楽業界に起きている
①音楽作品の飽和
②ジャンルの多様化
③コンテクストの不在
という3つの問題を指摘し、その状況に対して、定点観測をするために、このチャンネルの視点から文脈を提供していくことを掲げています。

本人たちも随所で語っている通り、これがそもそもニーズがあるのかはわからないというところから始めた取り組みだったようですが、
今のところ絶好調で、やはり皆こういう場を求めているんだなということが見えている状況です。

話を戻して、読書について考えると、やはり本にも同じことは言えるのではないでしょうか。
もちろんそういうコンテンツや場はすでにあるとは思いつつも、音楽以上に重いことは間違いない"本"というコンテンツについて、
ファスト教養とは違った形でありつつも、文脈へ橋渡しをしてくれるものがもっと必要とされているように感じますし、その重要性が今後の社会ではより増していくんじゃないかなと考えました。

この本に感じた違和感とその氷解

そんなことを考えたのですが、最後に改めて「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」に戻って、もう少し考えてみます。

この本を読んでいるときに、最初に感じた違和感は、なんか文体堅くないか?ということでした。
著者の本はあまり読んだことがなかったのですが、
なんとなくタイトルから想像したテーマ的には、もうちょっとライトな感じなのかと思いきや、基本「である調」で書かれているし、内容も歴史の話なので、比較的堅めだなと感じていました。

新書というフォーマットであれば、もうちょっとライトな書き口も全然ありだと思いましたし、著者の他の本をチラ見した感じ、そういう書き口も全然ありそうだったので、なんでだろうなと思っていました。
ちなみに、まえがきとあとがきは「です・ます調」になってるんですよね。

そんな違和感を持ちつつ、このnoteに書いたようなことを考えた時にふと思い至りました。
きっと、著者はあえてこういう堅めの文体にしたんだなと。
それにより、この本自体を、本の無限のネットワークへの接続点としたかったのではないかと。
単に読書のハードルを下げるのではなく、久しぶりにこの本を手に取った人が他の本も読みやすくなるような橋渡しをしたかったからではないかと。

きっと大事なのは、大きな変革ではなく、こういう細やかな工夫とその実践の積み重ねだと思うので、素晴らしい本だなと思いました。
未読の方がいたら、ぜひ読んでみてください。おすすめです。


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