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忘れていた思い出

 雪が降り積もる季節になった。私の家の近所にはちょっとした山がある。本当にちょっとした山であり、二階建ての家の屋根よりもちょっと低いぐらいのものだ。夏は芝生で、冬は雪だ。その山を中心にちょっとした公園がある。

 今日は子どもが妻とその山に向かっていった。そうすると妻からソリが欲しいと電話がきた。まだ2歳にもならないけど、ソリ遊びをしたいみたいだったのだ。ワシが使っていたソリは壊れてしまい処分されて数十年。新しくホームセンターで購入した。

 結局、子どもは、妻ではなくワシとソリにのりたいと意思表示をする。で、数回ソリ滑りをすると、子どもがお腹が減ったと意思表示したので帰宅した。帰りもソリにのせて帰りたいところだったが、激しく拒否するのでワシが抱っこで帰った。

 昼食の時に、母が祖父がワシを連れてよくソリ遊びに連れて行ったことを思い出していた、と話してくれた。ソリ遊びをした思い出がよみがえってきた。

 しかし、祖父とソリで遊んでいた記憶というのは、ほとんどない。母が言うにはワシを連れて行って、疲れて寝たワシをソリにのせて歩いて帰って来ていたそうだ。本当にまるっきり覚えていない。そういうふうに祖父が遊んでくれていたんだと思っても、祖父は亡くなって20年以上たっている。祖父は朝学校に行く時や遊びに行く時には、事前に靴や長靴をストーブの前で温めてくれる優しい人だった。

 この公園は、ワシが小学生の頃までは、1月か2月に冬のお祭りをしていた。しかし、市町村の財政が厳しくなり、行事の削減でなくなってしまった。今から思うと地域の過疎化とはこういうことなのだろう。

 この公園の山でのソリ遊びは誰よりもしたという自負がある。ワシが小学生になる前に歩いても5分程度だ。何度も何度も山に登っては、滑っておりてくる。今にしては信じられない体力だ。時には、友だち数人と誰が一番遠くまで滑れるか競争したり、ジャンプ台を作ったり、ひとりで滑ってみたり、、、いろんなことをした。思い出がいっぱいだったはずが忘れていた。恥ずかしい話だ。

 今日は、休日ということもあり、何組も家族で来ている人たちがいた。30年以上前とは違い、カメラやスマホを構えている人もいる。ただ、楽しそうにソリ滑りをする子どもたちは、ワシが幼い頃とは変わっていないんだろうな、と感じていた。

 最近、自分の記憶は自分で思い出そうとしても思い出せないものがあることを感じる。特に子どもが生まれてからは。自分以外の誰かがしていることを見て、「ああ、自分もしていたな」「自分もそうだったな」というように思い出す。これはなんなんだろうか。他人に自分を投影しているのかな。そういうことを思うとともに、他人がいるからこそ、思い出せるものが自分の中にある、このことを嬉しく思うのである。

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