布団は晒され続ける
会社の向かいには、ワンルームマンションがある。その一室の住人が、この春から新しくなったらしい。というのは、やたらとベランダに洗濯物が干されるようになったのである。色は無地の白かグレーばかりで、多分男性だろうと思われた。
「しかしな、なぜ今日、布団干すかな?」
ある曇天の午後、同僚が仕事をしながらふと言った。朝は薄かった雲はどんどん厚くなっていき、その時にはもう、今にも降りだしそうな天気になっていた。確か天気予報は夕方から雨。そんな日に、向かいのベランダには敷布団が干してあったのだ。ベランダ、と言ってもワンルーム。敷布団はその外壁に掛けて干してある。もし雨が降りだしたら確実に濡れるだろう。
「ほら降りだした!」
誰かがそういって会社の前に飛び出していった。
終業時間も迫ったそのころには、「ベランダの布団」は我々この会社で働く主婦の間では共通の関心事になっていたのである。
「あかん。取り込まれてないわ。あれ、そのまま濡れるわ」
うわあ~という、ため息交じりの声が出る。主婦にとって布団干しは、しかもこうして働きに出る主婦にとって布団干しはいつも、一種の賭けなのである。一時間ごとの天気予報を各種チェックし、雨雲レーダーをチェックし、更には実際に空の様子を見て、布団を干すかどうか慎重に判断するのだ。今日は絶対に布団干しはない。ないと簡単に判断できる日だ。
なのに。なぜこんな日に布団を干しているのだ? お向かいの彼よ。彼かどうかはほんとは知らんけど。
雨脚はあっという間に強くなり、本降りどころか土砂降りになってきた。私も気になって見てみるともう、布団は遠目にも外側半分が濡れて完全に色が変わっているのが分かり、カバーの中の、布団の太いストライプの模様が透けて見えていた。あああ、あれ、どうするよ?
翌朝は晴れていた。出勤すると、布団はそのままだった。そうか、昨日は帰宅してないのだな、と思った。
「いや、私が帰るときには部屋の電気、ついてたよ」
残業して最後に帰ったという人が、そう言った。
「それなら昨日の夜は、いたんやな?」
「じゃあなんで取り込まんのかな」
「濡れてるあんなでっかいもん、取り込めんやろ!」
「そのまま乾くまで干すんちゃう」
「じゃあ、昨日は布団なくて寝たんかな」
「そうちゃう?」
朝からロッカールームは件の布団の話題で持ちきりである。けどなあ、もしかして、電気消し忘れて出かけて、そのまま帰ってきてないってこともあるんじゃないかなあ、と思ったが、言わないでおいた。朝は周りが明るくて、部屋に電気がついているかどうかは分からない。
それからというもの、私たちの視線は常にこのベランダに向けられていた。敷布団はその翌日もそのままで、風で端がめくれ上がり、いよいよ荒れた様相を呈していた。軒下に一緒に干してあるタオル類もなんだか、元からグレーだったのか、こうやってグレーになってしまったのか、もうなんだか分からない。私はあれは、使いたくない。
こうしていったん濡れた敷布団とタオル類はずっと、我々の視線に晒され続けた。これだけ毎日干しっぱなしということはやはり、部屋の住人は留守なんじゃないかという見方が濃厚になってきた、ある日の昼休み前。
「増えたで! タオル! 赤いミッキーのタオルが!」
隣の部署の人が、こう言いながら書類を持ってきた。マジか!!と言って私と同僚はそれを確かめに走る。確かに、赤いタオルが増えていた。しかし敷布団をはじめ、そのほかの物は一切、取り込まれていない。
「なんで? まだ乾いてないんかい! 少なくともタオルは乾いてるやろ!」
「てか、もうタオルは洗いなおそうや」
「赤いもんもあるんやなあ」
「一応、帰ってきては、いるってことやな」
「あの布団、どうするん? 今は何に寝てるん?」
昼休み、みんな疑問に思うことを思い思いに口にする。我々主婦にとって洗濯と物干しと布団干しは、日々のタスクとして必ずあるものであり、ある程度気を使ってやっている家事である。向かいの住人が布団を干すというマメさを見せることには感心するものの、しかしその後のあれこれがどうも理解に苦しむのである。そうして全く疑問を解決することが出来ない中、ただ一つ全員が納得したことは
あの部屋の住人は、まさか私たちに布団と洗濯物のことを、ここまで言われてるとは夢にも思ってはいないであろう
ということであった。
我々主婦連はこれからも、向かいのベランダを注視していく所存である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?