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ある日。

新年度が始まり、4年生になった。
他の学部学科に比べ、今までの時間割はかなりタイトだったが、最終学年になりようやく落ち着いてきた。

すっかり馴染み深くなった世田谷の街も、今年一年が最後だと思うと切ないし、愛は溢れてくるばかりなので、きちんと学生定期を使いこなして、出掛けるようにしている。
「この前行った喫茶店、あの雑誌に出てる!」
「最近発売になった世田谷ライフ、早く読まなきゃなぁ」
「いつも挨拶を交わすあの人は、元気かしら」などと、
自分の生活の一部分と、今までは関わりのなかった自分の外側にあったものたちとで繋がりが作られるようになってきて、その多くをこれからも大事にしていきたいなと感じている。

特に最近は、授業の前後で映画を観ることが多くなった。
その日は祝日で学校が休みだったが、習慣的に観たい映画を探し、早起きをして映画館へ向かった。

鑑賞した作品はこちら。

(「マウリポリの20日間」公式サイトより)

ピューリッツァー賞を受賞したという宣伝がきっかけだった。私は中学生の時から、毎年、東京都写真美術館で展示されるピューリッツァー賞写真展へ足を運んでいる。ここ何年かは、日本で観ることができる機会が少なくなっているが、世界情勢、環境問題、宗教文化などあらゆる分野で世界のありようを広く知ることができる貴重な機会である。新聞に載ってなかったことも、そもそも自分が知らなかった世界にいる人々の暮らしの側面も写真一枚を見ることでその様相があらわになってくる。「マウリポリの20日間」は、公益部門において受賞したとのこと。絶対に観に行かなくてはという突発的な使命感に駆られた。

観た感想はここでは事細かには綴らない。
ただ、一人でも多くの人に観てほしい、伝わってほしいということと、自分の生きている意味ってなんなんだろうとひたすらに思った。

よく、このような惨状を知ると、自分の悩みがちっぽけに見えたという人がいる。自分は全くそうは思わなかった。日々生きることや、しあわせについて考えてきたつもりだった。つもりというのか、向き合い続けている自負があったし、そういうものの延長線上にあることを鑑賞後もずっと考えていた。
なぜ、ウクライナの人々は、こんなにもひどく、惨い目に遭わなければいけないのか。それとは対照的に、どうして自分は、今日も朝起きて、ご飯を食べて、電車に乗る時は人と譲り合い、何事もなく行きたい場所に行けているのか。自分語りをしたいのではなく、平和な暮らしが皆に平等にあることが当たり前なはずなのに、そうではないのかという不条理に、憤りをものすごく感じ、苦しかった。

映画館を出てから、地に足がついていないようなふわふわとした感覚で、歩いていた。ゴールデンウィーク真っ只中で、昼前の都内は様々な人が行き交っている。映画に入り込んだせいで、自分だけが浮いているようだった。

あぁなんでだろう、なんでだろう。

自分の中でさえもうまく言語化できず、消化しきれず、
首が重くて、のろのろと歩きながら考えた。
自分を見失ったわけではないけど、いてもたってもいられない自分に耐えられなかった。どうにか自分そのものを取り戻したい。
そんな無意識な思考の中で、谷中に着いた。

谷中霊園を歩いた。ここは昔からすきな場所だ。
お母さんと人力車に乗って徳川慶喜の墓を通るプチツアーみたいなことをしたこともあったし、コロナ禍に散歩して窮屈な生活がはやく終わらないかなぁって願ったこともあった。
この日の空は曇っていたけど、みどりに姿を変えた桜の木が大きく揺れていた。手を振っているように見えた。
つい一年くらい前まで、桜の木の1番の見頃は花が満開に咲いている時期だと思っていたけれど、桜にとっての美しい姿ってなんなんだろうと疑問に思うようになった。私からすると、桜が満開なときは、桜の木は必死に頑張っているように見える。頑張っているというのか、無理してるように見える。じゃあどの時期が1番見頃だと思うのかと聞かれると、それもそれで難しい。が、今の私は、葉桜の時期が1番好きかもしれない。葉桜の子たちを見ているとじわじわ切ない気持ちになる。桜は魅せるために生きているわけではないはずなのに、毎年その時期になると役割を果たせられて、周りに集まっていた人たちが身勝手に離れて行く。好きなものだけ手の内に置いて、関心が冷めたら手放す。そのような始末になるなんて、桜自身だって望んでないだろう。葉桜でいる時間というのは、役目を終えた桜の葉が一枚ずつ自身の体から離れていく。今年もお疲れ様と言っているかのように。季節が移りゆきながら、一皮剥くように太陽や雨を浴びて、葉を生やし不必要な枯葉は削ぎ落として、成長していく。そして、また見頃と言われる春を迎える。桜に限らず、生きているものは時間をかけながら姿を変え、その時々で美しい姿になっていく。それは誰かの生き様を投影しているのか。しかしながら、きっと万物の道理とも言えるのだろう。

ゆっくり歩きながら、木を眺めて、まるで会話しているようで、とても心地よかった。今日もこうして、季節が変わっても、わたしも桜も生きているんだということに気がついた。

谷中霊園にて


自分を落ち着かせるために、なだめるために、ひとりぷらぷらと歩いていた最中、今度は興味深そうなポストカードが目に入ってきた。

“谷川俊太郎 「ぺ」展”

最近、新聞に掲載されている谷川俊太郎のコラムを読んでいたことも相まって、どんな展示がされているのか気になった。

いざ展示がある戸建ての部屋の中に入ってみると、
「ぺ」の世界が広がっていた。ただそれだけだ。

フランス人の「ぺ」の沼にハマった、「ぺ」愛好家による、自由な「ぺ」の世界が散りばめられていた。
そもそも、本家 谷川俊太郎の「ぺ」の内容もよくわからない。なんだか、抽象的で堅苦しい言葉の羅列があって、端的に言うと難しい。だが、私が想像するに、文章の解釈を読者に委ねているのだと思った。そして、まさにその体現化が、今回の「ぺ」展だった。
「ぺ」はあらゆる世界に存在していて、それぞれの場所で「ぺ」なりの意味を成している。クスッと笑えるイマージュもあれば、日常を風刺するような作品もいろいろあった。
その中でも、自分が気に入った作品がある。

「喪失感」
作:ジェローム・シャントルウ

この男性の、Tシャツには「pa pi pu po」とあるが、連続する言葉の中で「pe」だけが欠陥している。本人は、「pe」がないことに気づいていない。だが、大事ななにかが欠けている、足りないということには意識があって、それが何なのかわからず、何かを思い出そうと見つけ出そうと頭を抱えている。
(←という私の解釈)

誰でも、日々生きていると、なにかに没頭して集中しすぎるあまり、ものの形が捉えられなくなるということはよくあると思う。それを取り戻そうと思っても、思うがあまりやり方や扱い方がぎこちない。だが、さまざまなものに触れながら、ほかのものと同じぐらいの距離感で過ごしてみると、本質が見えてくることもある。もちろんそうではない時もある。塩梅は、とても難しく、決定的なこれというものさしはない。特に、人への執着や価値観のこだわりがその例である。

毎日、色々なことを考えている中で、この絵と出会った。ある時の自分が目の前にいるような気がして、あ〜...とすんなり納得した。わからないもの、失ったものに思いを馳せることは、結末があるわけではなく、何かそこから得られることがあるわけでもない。だけど、わからないものと共存したり、耐えたり、知ろうとすることは、大切なことなのではないかと最近考えるようになった。
この絵に出会えたおかげで、映画を鑑賞した後のもやもやした時間も、自分にとって大切なのだと思えた。耐えられない、抱えきれないことに逃げることなく、向き合っていく。そういう時間をこれからも意識的に持ち続けたい。そう思えた。


外はすっかり、日が沈み始めていた。
前向きな気持ちで帰路に向けて歩けている。
この日、映画を見なければ自分の視野を広げることをできなかっただろうし、谷中に来なければ自分を癒すこともできなかっただろう。
すべての時間と、巡ってきたご縁に感謝したい。


また明日、たくさんの人びとが心地よく朝を迎えられますように。

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