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あ。私、新聞社辞めたくなかったんだ。

私も退職届を書いた。
そして、出した。
社会人2年目の冬のこと。
そして、私は会社を辞めた。

出だしの4行で心をつかまれ、あっという間に彼の世界に引き込まれた。
筆者である熊田さんと私の記者としての経験は似ていた。でもまったく違っていた。

熊田さんのnoteを読んで「涙をこらえきれなかった」とつぶやいているツイートも複数タイムラインに流れてきた。

私は「すごく面白い」とは思ったけど、「感動」したわけではなかった。明日への活力がわいてくるわけでもなかった。
…っま、そりゃそうだ。だって私もう新聞記者じゃないしな。
でもなんだろう、この気持ち。

この感情を整理するのには少々時間がかかった。

いろんな人の感想ツイートを読み漁り、昔の日記を引っ張り出して読んだりしているうちに、私も涙をこらえきれなくなってしまった。

あぁ、やっぱり悔しかったんだ。新聞記者辞めるの。

「悔しかった」という気持ち。
自分のプライドや自己肯定感をこれ以上壊さないために、数年間ずっとフタをしてきた感情だったのかもしれない。

熊田さんのnoteには、熊田さんを救う先輩記者・Mさんが登場する。

マスコミ業界で働くうえで、パワハラによる挫折など、この手の壁を乗り越えるにはだいたい素敵で尊敬できる人との出会いがある。

一方で、私が新聞社を退職するまでの出来事をまとめたnoteには、そういった人は出てこないし、今後もその予定は無い。

そう。結局、人やねん。
壁を乗り越えられるか否かは、縁と運。

別に、その縁と運をつかめた人のことを妬ましくは思わないし、今のこの人生は人生で楽しんでいるので自分の運命を嘆くつもりもない。

そもそも、当時のデスクの言動がパワハラに類するものだったのかって、今は正直よくわからないっていうか、違うような気もするっていうか(戦力外通告は受けたし、心も病んだけど)。私以上に大変な経験をされている方も多いし。
単純に私の適性と精神力が無さ過ぎたのが原因だったとマジで思っている。だから、Mさんのような人との出会いがあったからといって、新聞記者を続けられていたという自信は1ミリもない。

「退職届を書いた。そして、会社を辞めた。」
人生の分岐点でこの道を選んだのは必然だったと思っている。
遅かれ早かれ、いつか新聞社を辞める運命にあっただけ。

だから、熊田さんのnoteを「面白い」とは思いはすれど、「感動」はしなかったんだと思う。
運と縁をつかめた、自分とは違う世界の人の人生だし。

でも、なぜか、今、私は泣いている。
熊田さんのnoteをきっかけにふと思い立ち、数年ぶりに私用のGmailをさかのぼってある人からのメールを読み返した瞬間に、思い出したように涙がこぼれてきてしまった。

新聞社の退職日、社用メールから最後の挨拶メールを同部署内や関りがあった人たち数十人に送った。ネットで「退職日 最後のメール 挨拶」とかでググって出てきたテンプレをほぼコピペしたもの。テンプレにあった「今後の連絡先は、こちらのメールアドレスに…」的な一文は、削っても支障ないかなと迷ったけど一応私用のGmailを記載しておいた。

2年弱しかいないし人間関係も希薄だったのに、5人の先輩・上司から返信が届いた。

その中に、記者1年目の警察班時代にキャップだったAさんがいた。
いつも眉間にしわ寄せてて近寄りがたい雰囲気だし、いつ寝てるのかわかんないし、常に忙しそうで話しかけにくい。それに、次年度からAさんは運動部に異動してしまったので、それ以来顔を合わす機会がほとんどなかった。

まさか、まさか、まさか返事をもらえるとは思ってなかった人だったので驚いた。
おそるおそるメールを開くと、丁寧な文章でこうつづられていた。

一緒に仕事をした身として、この仕事の楽しさとかやりがいとか、もっと伝えられることがあったのではないかと自問しています。何か大層なことができる立場や能力はないけれど、相談に乗ったり雑談をしたりすることはできたのではないか、忸怩たる思いと申し訳なさを感じています。
次に進む道でも獅子らしく、自信を持って楽しい日々を過ごされること、心から願っています。

Aさんは、私が1年目の警察班配属直後に、ペーパードライバー状態で山道を下ってブレーキ壊したときに迎えに来てくれた人。そしてその2カ月後、警察署で過呼吸になったとき「気に病む必要なし」って連絡をくれた人。
センター試験の日に休日出番が一緒になったときは、一緒に問題も解いた。笑
現代社会かなんかが95点ぐらい取れたことを報告すると「すごいなあ、さすがやな」って微笑んでくれた。


私は、SOSを誰にも出せなかった。
そして差し出していてくれたかもしれない手に気がつけなかった。
もしかしたら、「退職届を書いた。でも、会社は辞めなかった。」っていう選択肢があったのかもしれない。
熊田さんになれたのかもしれない。

Aさんのメールの文面を開いた瞬間、涙が止まらなくなってしまった。

私にも、運と縁はあった。

当時つけていた日記を引っ張り出して読み返すと、退職日当日の記憶を鮮明に思い出すことができた。


私は、退職届を出したあの日の時点で、すでに東京の出版社に内定をもらっていた(もちろん会社には言っていない)。
「東京でハッピーライフを楽しむぞ♡」「失われた時間を取り戻すぞ♡」って心からそう思っていた。

最後の出勤日、記者クラブを出たあと本社に人事部に社員証と健康保険証を返却しに行った。

前日のシミュレーションだと、会社の敷地から出た瞬間「さよなら!○○!(←地名)」って心の中で勝利宣言をして、スキップしながらニッコニコで帰宅するつもりだった。
もはや、清々しくて空飛べちゃうんじゃない?って。

当日も、直前までそのつもりだった。
でも、すべての手続きを終えてガラス張りのきれいな社屋を背に歩き出した瞬間、溢れてきたのは勝利宣言じゃなくて涙だった。

悔しいなーって。

あの日、会社の目の前の歩道で立ち止まり、そっと見上げた曇りがかった空の色は今でも鮮明に覚えている。

負けた。負けた。負けた。負けた。
会社に負けた。自分に負けた。私は負けたんだ。

ああ。やっぱり私は、新聞記者になりたかったんだ。学生の頃に憧れたような記者に。
でもなれなかった。
その苦くて重い事実を一歩一歩踏みしめなくてはいけなかった。
そうやって悔し涙を流していること自体も悔しかった。

その日の夜に書いた日記には、こう書いていた。

本当は、成功したかった。心を開きたかったんだろーなーと…思う。
自分らしくいられたら。
もっと、助けを求めることができたら。素直になれたら。

あんなに嫌いで、心を閉ざした、○○(←地名)
自分が自分じゃなくなっていく感覚。
心が壊された、この街。
”優しさとは、ゆるすということ。”(←Anly+スキマスイッチ=『この闇を照らす光のむこうに』の歌詞の一節)

いつか、下を向かず、前向いて、堂々と、
この街を歩ける日が来ますように。


ここまで書いておいて結局、根本の「パワハラが常態化しているマスコミ業界の問題」には触れませんでした。
大問題なことはわかってるんですけど、私が指摘する資格もないし、どうしたらいいのかわからない。ほぼほぼ身バレしているので、そんなつもりは毛頭無くても「古巣・元上司を批判してる」って思われるのも怖いんですよね。小心者ですみません。
諦めもあります。元同期たちの話を聞いていると「我慢して乗り越えるのも、一人前記者になるための試練だったんだな」って思ったり。

だから今できることとして、私が誰かの運と縁になれたらいいなって思ってます。

熊田さんのnoteは終盤、こうつづられています。

そして願わくは、全国の「内ポケットに辞表をしのばせている記者」たちに向けて、「ちょっと待て。1回、やってみてからでも遅くない」と呼びかけられたらいいなと。

熊田さんが今現在取り組んでいらっしゃることと、辞めた私ができることには天と地、雲と泥、月とすっぽん以上の差があるんですけど。私がnoteなどを書くことで、それを目にした同世代や新人記者さんの心が軽くなったらいいなと思っています。私でよければ、相談乗ります。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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