見出し画像

■大江健三郎 死者たちの近親(1/2)

(『人生の短さについて』で、セネカは
大部分の人間たちは死すべき身でありながら
自然の意地悪さを嘆いていると書き記すことから始めている。
そう言われてみればそうかもしれないと、
一度はこう思わせるのが、
セネカのうまいといえばうまいところだ、レ-トリック。
自然が意地悪をするといった擬人法を用いて、
本当は人間と全く異なった次元にある自然を
人の温かみのする方へと導き、
人間的な自然に仕立てあげる。
そのうえで、
そういう操作をする前の自然の冷やかさで
わたしたちが遇されているかのような印象を与える。

たしかに人は死すべき存在である。
しかも死に赴く方法といっても
そのバリエーションは無残なくらいに少ない死すべき存在なのだ。
極言してしまえば、
それはわずか七語の”臓器の機能停止”に要約できる。
肝臓から、肺から、あるいは心臓そのものからというように
各臓器から機能低下が始まる。
やがて機能障害はわたしたちを身体的に内部から腐敗へと誘い、
生命の存続に足る量を分泌・流通できなくなると
わたしたちは干涸らびた河のように川底を露呈して死へと至る。

また、亀裂の入りやすい銀紙のような皮膚に覆われた臓器が
はみ出した場合にも死に至る。
そのときわたしたちは瞬時にして、
死すべき存在から死んでしまった存在へと移行する。
可能態から実現態への後戻りのきかない一歩を
踏み出してしまったことになるのだ。
わたしたちは衰弱か衝撃かのどちらかの手段を通じて死に至る。
選択権はない。
訪れる死を前にして、わたしたちに選択権はない。
生か死かを選ぶ者だけが、
そして死を選んだ者だけが自分の手段で死に至ることができる。

しかし、
どのようにして死を選んだところで
わたしたちが死を見ることはない。
わたしたちが見るのは死ではなく、死体だ。
わたしたちが見るのは常に自分以外のものの死体でしかないのだ)

 大江健三郎『死者の奢り』で僕はアルコール液に浸されている解剖用の死体を眺めながら、それが火葬された死体とは違って物の感じを与えることに気付き、こう思い至る。

    *

 そういうことだ、と僕は思った。死は《物》なのだ。ところが僕は死を 意識の面でしか捉えはしなかった。意識が終わった後で、《物》としての死が始まる。うまく始められた死は、大学の建物の地下でアルコオル漬けになったまま何年も耐え抜き、解剖を待っている。

    *

 この部分はどういうこと言おうとしているのだろうか。うまく始められた死とは何のことなのか。死の認識を改めなければならないと僕は考え始めたということだ。
 これまで僕は、死は身体的にしか訪れないと考えていた。だから身体が活動しなくなれば、死を捉える意識も身体に根ざす以上、一緒に消滅するという具合に考えを進めていたのだ。だが、待てよ。ぼくはあまりにも死を身体の消滅と同義に考え過ぎていたんじゃないか。僕の考察は放置しておけば腐敗してただ溶滅していくしかない死体ばかりを前提としていた。だから、腐敗する前に焼いてしまうことはら切り離せなかったんだ。けれども、僕が今見ているように、腐敗しない死体というのもあるじゃないか。ということは、そうだ、意識が終わったところでぼくは意識の死を迎えるが、死体として《物》の死を過ごす時期をその後に措定してもいいんだ。
 このような保留形式の死を発見している点で、『死者の奢り』は生きている者の地位を保ったままでの死者への接近を可能としている。接近は至近距離まで行われる。僕は望ましい将来の姿とでも自問するように、《物》である死体と会話をする。また、邪気なく触れることさえできるのだ。

    *

 僕は水槽の淵に躰を擦りつけている中年の女の死体の硬い肉附きの腿をゴム手袋をした掌で、軽く叩いてみた。それは弾性のない、しかし柔軟な抵抗感を持っていた。
私の腿は生きていた間、ずっと良い形だったけど今となっては少し長すぎるかもしれないわ。
 よくできた櫂だと僕は思いながら、その女が軽い布地の服を着こんで舗道を歩く姿勢について考えた。少し前屈みだったかもしれないな。

    *

 この会話は、女子大生が部屋に入ってくることで妨げられてしまう。だが、アルコール漬けになっているひとつの死体がなぜ僕にはこれほど身近に思えるのか、また逆に生きている者との間に齟齬をきたしやすいのはなぜか。
 死者たちは僕と会話する。死者たちは僕と意見の対立をみる。だが決して争うことはない。僕は生きている。死者たちはすでにその生を完了している。僕の生はまだ続いているというそのことだけでも僕はまだ生の経営に行き詰まっていない。ところが死者たちの生はもう破産してしまっているのだ。僕と死者たちの親しさは次元が違っている。僕が背を向けて口を噤んでしまえば死者たち途方もない沈黙へ黄泉返り、照り返す言葉も失くしてしまう。僕と死者たちの関係は、だから、腹話術師とその人形のような親しさで結ばれている。僕は空虚で満ちた者としか会話できない。生きている者は僕には空虚の場を提供しない。その内包しているものの屈折率に応じて誤解が生じる。
 例えば、この場面だ。僕は昼食の休み時間に地下の水槽のある部屋へと蘇生する。死者離れすると同時に自分の生きている感覚が蘇ってくる。僕は手押し車に乗った小柄な男を病んだ少年だと思い込み、励ましの意味を込めて肩に手を置く。だが通り過ぎて振り返ると、少年だと思い込んでいた人物は侮辱に結果を膨らませている中年男だった。

    *

 僕は呆然として立ってい、僕の躰一面に、急激にものうい疲れが芽生え、育った。あれは生きている人間だ。そして生きている人間は躰の周りに厚い粘液質の膜を持ってい、僕を拒む、と僕は考えた。僕は死者たちの世界に足を踏みいれていたのだ。そして生きている者たちの中へ帰って来るとあらゆる事が困難になる、これが最初の躓きだ。

    *

 僕は生きている者との理解の困難を、死者世界に滞在していたことに還元しようとしている。だがこれは間違っている。僕は生きている者たちとの理解をあてにしてはいないのだが、蘇生の喜びが僕を盲目にして思わず手を置かせたことを恥じているのだ。僕は理解を投影する光源であると同時に、他者の銀幕に映った理解を解読し、回収する者でもある。僕は常には銀幕が空白であることを確認して作業を行うのだ。僕の常態は関係を結べる相手の選択者だ。しかし、地上の世界の眩しさに僕は選択の遠近法を一時喪失してしまった。蘇生の喜びが僕を解放した。僕を無警戒にした。相手を間違えたその選択が罰せられる。ぼくは用心深さを取り戻す。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?