見出し画像

■大江健三郎 死者たちの近親(2/2)

 生きている者たちの世界と死者たちの世界、僕はどちらの世界に住めるのか。理解がそもそも不能な世界と理解が循環する世界のどちらなのか。勿論、生きている者たちの世界にいるのでなければ生きているとは言えない。だが理解の方法を改めることはないのだ。するとどういう事態が僕を訪れるか。死者という空虚の場を埋めるものを生きている世界で探さなければならなくなる。探せなければ僕は、投影の光源が自分の未来を照らし出すのを見ることになる。闇を拓いて一筋の光のもとで明らかになる自分の個体の死。

    *

 《死》は僕にとって百年後の自分の不在、幾百年後の自分の不在、限りなく遠い未来の自分の不在ということだった。それら遠くはるかな時代にも、戦争が行なわれ子供らは感化院に収容され、同性愛の男らのための娼婦をつとめる者らがおり、極めて健康な性生活をおくる者らもいるだろう。しかしその時僕はいない。

    *

『芽むしり 仔撃ち』の疫病の村で眠ろうとする僕を襲う死の観念だ。これが死の観念の一般的な訪れ方だ。個体の寿命をほぼ百年と見做し、百年後にも世界はあるか自分自身がいないというような手続きを踏んでこの観念は訪れてくる。
 わたしたちが往生したり輪廻したりしない限り、死ぬことは消滅を意味している。腐敗しない《物》としての死体を措定するのも可能だが、それは妥協案であり根本的な解決とはならない。時間的に訪れてくる死に対して、わたしたちが再生しないとするならば、観念を追い払うには極めて限られた幾つかの方法が残るばかりだ。列記していこう。
 世代的な交替も再生の範疇に加える方法がある。この方法でいけば、自分が死ぬということはそのまま認めながら光源の投影される空虚を次世代に見出すことで自分の個体の死を見なくて済むようになる。文学的な実践としては、それが明瞭な形で行われたのは『新しい人よ眼ざめよ』においてだ。ウィリアム・ブレイクの詩句「倶れるな、アルビオンよ、私が死ななければお前は生きることができない。しかし私が死ねば、私が再生する時はお前とともにある。」を端緒とするように描きながら、次世代の誕生を祝う。だが決してこれは次世代の生誕のそのときを祝っているわけではない。私の不在を覆うに足りるまで、私は次世代の成長を観察する、また成長を促す。それはどのようにしてかといえば、父である僕が不在の演習を繰り返すことで行われる。
「落ちる、落ちる、叫びながら・・・」の僕は泳げず沈んでいく子供を目撃しながら、身体を動かすことができない。ただブレイクの詩句が頭をよぎるにまかせるままだ。僕はいなくなる人間なのだから、いかなる有効な態度もとりえないのだとあらかじめ言い聞かせているかのように。しかし、これは演習にすぎない。僕が子供の力を試すという主従関係自体が変化しなければ、模擬段階にとどまっているのだ。最終的には、僕が望む通りに拒否されることでこの企図は成就される。僕の不要が宣言されて初めて僕の演習も終わりが来たことを告げられる。僕の望みとは子供に絶縁されることにほかならない。子供の自己の充溢につれて徐々に溢れ出る僕という構図が完成図として青書きされている。だから僕は心安く子供の自己の器から自ら溢れ出ようと幾度も試みることもできるのだ。
 個体的な死を類的な死と直結させる方法。今ここで人類という全体が滅亡してしまえば、人類の部分をなしている個体も消滅してしまうことになる。これは論理的な帰結だ。この論理の枠からはみ出ることはできない。類的な死は個体的な死と直接に結びつく。個体の死ののちも類的な生存があるならば、個体の死は類の死と同値にはならない。
 しかし、個体の生存を最重要視する考えを敷衍していくならば、個体の死は類的な生存を無関係なものとして排除することができる。その結果、個体の死は一切のものの消滅として意味される。根拠の根源である個体そのものが失われるからだ。これもまた論理的な帰結にすぎない。求めて得られる展望に欠く死観だ。
 そこで設定されるのか、個体の死と類の死が実はある特定の期日に訪れるのだとする考えだ。現実世界でこれと呼応するのが核の大火ということになる。核は個体の死と類の死を同じ接点で触れあうものとした。核という壁に向かって、類の死という火薬球が飛び、その最も先端となる箇所に個体の死があるというのである。
 大江健三郎は核を用いることで、<僕は死ぬ>を<わたしたちは死ぬ>に変換した。それは人間は死すべき存在であるという事態を限定状況下に置き、普遍的な原理を同時代的な命題にしたということでもある。個と類の文脈に即して言うならば、核は類的な生存の道を消去することで、百年後に僕は死んでいるが極めて健康的な性生活をおくるはずの者らも死んでいるという事態を想定させる。核から後には何もない、つまり百年後の僕の死を不在とみなすに足る生存のざわめきも見当たらないということだ。僕は自分の死に怯える代わりに核に怯える。このようにして大江健三郎は死者たちに接近したように核の大火に接近し燃え移り、核の大家となる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?