川畑battie克行

詩人・SSW。愛と死と青空を巡る思索。詩人として、『サイネリア』(書肆山田刊1989年…

川畑battie克行

詩人・SSW。愛と死と青空を巡る思索。詩人として、『サイネリア』(書肆山田刊1989年限定300部)、キンドル詩集に『サイネリア臨書』『青空/揮発』『花ごころ』他。SSWとして、アルバム『百年経ったら墓ん中』『うしっ!』他。批評『晩年感覚』は、『群像』(1986年)の最終選考作。

マガジン

  • 寺山修司論

    なぜ、寺山修司は俳句から短歌に移ったのか、寺山修司にとって「母」という問題はどのように解決されたのか、寺山修司とは、結局なにものだったのかを谷川俊太郎との対比において考えました。

  • 坂本龍一詩篇

    坂本龍一の音楽にインスパイアされながら、その源をさぐってみる詩篇です。まずは、『エスペラント』について試してみました。

  • 批評『晩年感覚』

    大江健三郎と村上春樹とは、どのように異なり、どのように類似しているのかを、死者との距離、孤独の発生と処理、同伴者殺しなどのテーマに沿って考察しました。

最近の記事

『、、、サイネリア、、、』

、、、、、、、、発熱する、、、      、、、発光する、、、  、、、濃紫、、、              、、、成熟の  、、、半鐘として、、、           、、、あらゆる奇跡は、、、         、、、こともなげに、、、         、、、開封しようと、、、している、、、                   (、、、開かれる、、、五月の、、、弓、、、) 
 、、、その水盤へと、、、          、、、ただ舞い降りる、、、

    • 寺山修司論『液体と規則性』

      『12 樫、刺青、皮膚』     * (寺山修司から谷川俊太郎へ) 谷川さん、 丁寧な葬式を 最後までどうもありがとうございました。 谷川さんにとって僕はやはり 風薫る五月の青年だったということなんですね。 「死へと向かって成熟してゆくことを  終始拒否しつづけてきた彼にとって、  その瞬間は<私>の消滅の瞬間ではなくて、  <私>との和解の瞬間、  むしろ誕生の瞬間であるかのように」 思っていただいた僕ですが、 成長というのは、 歴史よりも地理を好む僕にとっては、

      • 寺山修司論『液体と規則性』

        『11 葬儀、藻、服喪』     * 死が間近に迫っているというのに 死という主題が寺山に迫ってこないのは、 若年から内臓疾患を有してもはや 早々とその中に深々と浸されているからである。 寺山修司にとって死とは、 われわれが持っているものとは大きく異なっている。 それは不慮の事故として 襲ってくるものでもなく、 直線の彼方に加齢とともに 衰弱して訪れる消失点でもなく、 ただ体力の限り渡り切らなければ 自らが沈み込んでしまう 澱みの沼として すでに出現しているものであ

        • 寺山修司論『液体と規則性』

          『10 避暑、臨死、猜疑』    * 風、まさに大気として 世界を駆け回る<透明>。 無意識のままに、気圧の変更に従って 不自由に自由を謳歌する風。 しかし、愛に破綻しても 冷涼な風であっても 谷川俊太郎は詩人であり、 規則性という職業的技術のほかに ひとつの大きな特徴があり、 それが寺山修司と 谷川俊太郎という ふたつのTを分離させている。 それがさきほどの<透化>であり、 彼は少なくとも三種類のものに<透化>を行うことができる。    * ひとつは<土地>で

        『、、、サイネリア、、、』

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        • 寺山修司論
          12本
        • 坂本龍一詩篇
          3本
        • 批評『晩年感覚』
          5本

        記事

          寺山修司論『液体と規則性』

          『9 万有引力、通報、感染』     * 谷川俊太郎は三度結婚して、 三度離婚しているので、 もし卒寿を越えた晩婚がなければ 「私は背の低い禿頭の老人です」と自己紹介する詩人は 最終的には独身としてこの世を去ることになるだろうが、 その彼が愛の詩集とでも呼ばれるような いくつかの詩集を持っていることは、 皮肉ではなく、 彼が誠実に結婚という制度に則って、 自分の恋愛を<愛>化しようとしたにもかかわらず、 果たせなかったということでもある。 そしてその原因は 愛が孤独

          寺山修司論『液体と規則性』

          寺山修司論『液体と規則性』

          『8 田園、廃木、そら豆』     * 谷川によって行く手を阻まれた液体、寺山修司は、 1965年、 『空には本』『血と麦』に続くかれの第三作目にあたる 『田園に死す』を発表する。 寺山は極めて理知的な操作を行う技巧的な作家だが、 彼はここで大きな決断の崖を跳んでいる。 彼は近年温めていた二つのアイディアを 実践することに決めたのである。 ひとつはモダニストからの転向である。 会津藩とともに新政府軍と戦ったために 鹿児島から青森へと藩ごと移動された斗南藩藩士で 薩摩

          寺山修司論『液体と規則性』

          寺山修司論『液体と規則性』

          『7 いるか、配線、夏蝶』     * 1954年、大学入学と同時に 未来を嘱望される有望な青年歌人として 自らを顕現しようとした寺山修司であったが、 その以前の二年間に続けて 日本詩壇の戦後最大の事件である 『二十億光年の孤独』と 『六十二のソネット』が誕生させていた 谷川俊太郎がいたことが、寺山にとっての躓きである。 それまで短詩形を換骨奪胎しては 自らの滋養としてきた寺山が 初めて消化できなかった韻文、 無意識が無意識のまま手つかずで書かれて その発表による揺

          寺山修司論『液体と規則性』

          寺山修司論『液体と規則性』

          『6 帽子、忘我、液体』     * <歌詞>においてあれほどの制御と発熱を可能にしてきた 寺山修司は、では果たして何者なのだろうか。 このように考えてみるとき、わたしたちは 再び冒頭に立ち戻っているのだ。

 この追跡はこのように書き始められてはいなかっただろうか、 「わたしたちは寺山修司を迷宮の使者、虚構の錬金術師、 前衛の覇者として信奉し、ジャンルを越境するに勢いあまって、 五十歳を待たずして彼岸へと跳ねていった 疾風怒濤の人と理解しながら、しかし彼の思惑通りに

          寺山修司論『液体と規則性』

          寺山修司論『液体と規則性』

          『5 濁流、孤独、曼珠沙華』 俳句は盗作の始まりであり、 短歌が闘争の道具であるというのならば、 では、いったい、寺山修司の詩情というものは どこでどう流されたのだろうか。 

それとも彼は言葉のインスタレーションに 夢中になって、 それが与えてくれる 万能感に浸ることで歌う愉悦を覚えたのか。 彼の詩情とは、 感情さえも剥がされた孤独が洩らす呼び声である。 それはなんと<歌詞>という場で流れている。 自分の凍えにも気づかないほどに凍てついたまま、 それでもまだ生きてい

          寺山修司論『液体と規則性』

          寺山修司論『液体と規則性』

          『4 夏帽、唇、放浪』 ひとつ誤解を解かなければならない。 現在、寺山修司として世間にその名を知られている人物、 自己創作した仮構の東北弁を纏い、 質問を必ずはぐらかし、 解答を必ず自分の手持ちの比喩で返して 論議を巻き起こすことそのものを目的とする 騒乱者である寺山修司という人物、 彼は実は二代目寺山修司である。 <初代・寺山修司>は その名を京武久美といい、 寺山修司の中学・高校の同級生であり、 目立ちたがりの二代目とは逆に 内向していく感情を言葉にぶつける 純文

          寺山修司論『液体と規則性』

          詩集『きみは転がりこんできたね、マイボーイ』 6

          『奇数の歯を持つ嬰児(前)』 ■見どころ、読みどころ■ これは長い、実に長い、本当に長い詩です。あんまり長いので、前・中・後の三部作にしたくらいですから、とほうもなく長いのです。 なぜそんなに長くなってしまったかといえば、これが父と子の二人きりでの、初めてのおでかけだったからですが、問題はそこじゃない。なぜ、一歳にもならない息子を連れて父はでかけなければならなくなったのか、しかも自発的に。 それはですね、わたしが息子から人見知りされたからですね。 あれは、生後六ヶ月か七

          詩集『きみは転がりこんできたね、マイボーイ』 6

          『(簡易な違約とともに書き逸れていく)鶺鴒追跡』報告 *(ノジギク)

          東へと移動した鶺鴒、 婚姻色の黄鶺鴒はここでは、 もう自らの居場所がない川へと、 変貌した川へと つかのまの帰省を果たしている。 魚を取らなくなった川は、 遮られることもなく、 早い流れのために空虚の波、 <seseragi、blank>を流している。 その細い流れ、 付箋のような川の流れは 自らの声に含まれてしまった 望郷と帰郷との 断絶の峡谷を洗浄している。 帰省という河口へと運ばれて 堆積していく自重を取り払うために、 鶺鴒は冬の風の冷たさの中を飛ぶ。 乾きを水で

          『(簡易な違約とともに書き逸れていく)鶺鴒追跡』報告 *(ノジギク)

          『ワンガの誓い』from『エスペラント/A Wongga Song Dance』

          若木のように健やかなる者よ、 長く老いたる者から伝えなければならないことがある しかと受け取り、しかと伝えてもらいたいことである われわれの土地の精霊は、女神であり、 そのかたは身ごもっておられる その腹のみどり子は目覚めてはならぬもの、 眠り続けていただなければならない希有のみどり子であられる 女神は 身ごもり続け、決して産み落とすことなくおられる覚悟である われわれがみどり子を目覚めさせれば みどり子の指先ほどの力で この大地のいのちの影をなくし いのちのもとの宝珠を か

          『ワンガの誓い』from『エスペラント/A Wongga Song Dance』

          『3 卵、インスタレーション、葡萄』

             * 俳句と短歌が 詩と決定的に異なっているのは、 言葉のさらなる圧縮であったり、 季節の変遷への感受性の鋭敏ではない。 日本の短詩型文学は本質的に<卵>である。 一行の文字の連なりへと 有機的な形態を変化させた重心の<卵>である。 掌に載せただけで、 それの重心がどこにあるかが分からないために、 安全を保ったまま持っていようとすると 掌を中心として身体全体が調律をほどこされ、 平衡を保つのに神経の過度な働きを要する<卵>、 それを持ったまま さらになにかもうひと

          『3 卵、インスタレーション、葡萄』

          ■村上春樹 死者目録

          (死は個体的に経験することができない。自分自身の死はわたしたちにとって常に想像上のものでしかありえない。想像上の動物が既知の動物の各部を寄せ集めて造形されるように、自分自身の死も見聞した死者たちの感情移動や身体変化を組み合わせて像として練り上げられる。わたしたちは死を学習するのだ。  自分のものでない死を通じてわたしという個体に訪れる死を類推する。その場合、類推される個体の死は、範例とした他者の死と似通ってくる。その人にとっての死を測るには、どのような死を自らの死の手本として

          ■村上春樹 死者目録

          詩集『きみは転がりこんできたね、マイボーイ』 5

          『サークライト・セレナーデ』 ■見どころ、読みどころ■

 この詩の舞台になっているのは、江戸川区に住んでいたときのアパートです。あの部屋からは、ディズニーランドで打ち上げる花火が見えました。 風呂からあがったあとで、花火を眺めて就寝するのがあの頃のわが家のスケジュールで、花火があがる様子が子供にはバンバシュウと聞こえ、もぞもぞと指を動かしながら腕をあげるのがその真似です。
  花火が終わって、さあ寝ようと電気を消すのですが、まだ眠くない子供は本を持ってきて読んでもらお

          詩集『きみは転がりこんできたね、マイボーイ』 5