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【気ままな読書日記】G・ライル 心の概念 / 3章 意志

今更ながら思う。
この本読む前に、まず、デカルトの二元論やら主知主義やらを知っておかねばならなかったのではないか、と。
3章で意志が取り上げられているのは、どうも「そこらへんのコトと関係が深いから」っぽいのに、デカルトを知らな過ぎて1ミリもついてゆけないこの不幸。いや、困った。どうしよう。

うう~っすらとわかったのは、やっぱここでもライル先生はアンチ主知主義のオーラを漂わせていらっしゃるらしいことくらい(違ってたらすみません)。

価値評価概念を使用するわれわれの権利を救いあげるためには、この概念の適用領域がこの外部世界以外のどこか別のところに存在するということを示す必要があることになる。そして、測定不可能ではあるが目的をもった力の働く内部世界こそがまさにそのような領域にふさわしいと考えられたのである。そこにおいては、必要とされる内的な力の出力としてすでに「意志作用」が指名されていた。したがって意志作用による伝播によって定義された意志介在性こそが事象を精神的なものたらしめる身近な特異な要素であると考えることは自然の成り行きであった。

p.100

ライル先生がおっしゃるところによれば『結局、意志の強さとは一種の傾向』(p.96)

これに関してはすんごい納得できるのです。
だって目に見えないものは、目に見えないし(←私的世界)、
目に見えるものは、目に見える(←公的世界)。
山田君が「意志が強い人かどうか」を判定するためには、山田君が公的世界で見せてくれる「目に見える何か」を基準に吟味するしかありません。

ほかにもたとえば、ある人物の訴える私的世界と、その人物を外側から眺めた印象(公的世界)が一致しないようなケースに遭遇した場合、私は普段どんなふうに対応しているだろーかと考えてみる。

「私ってAなの~」と主張する人物が「Bにしかみえない」場合。
   ↓
私だったらたぶん言葉通りには信じない。「そっかあ、キミってAなんだねえ~」とニッコリ相槌を打ちつつも「自称AだがB傾向」と脳内に書き記しておくこと間違いなし。ライル先生のおっしゃるとおり、目に見える傾向性を軸にインプット・アウトプットを行うでしょう。公的世界での、目に見える傾向性がそのまま『=その人物の性格』となる。

ここまではいいのです。が、しかし。

こういうの書いちゃったら「オマエなんもわかってねーな!」って怒られそうでアレなんですけども・・・・だけどやっぱり思っちゃう。
howの前は?と。

この人の「私ってAなの~」というhowはどこから出てきたのか。
フツーに考えて「私ってAなの~」以外にも数々の選択肢(複数のhow)があったハズです(え・・・あるよね??)
複数ある選択肢の中から本人にとっての最適解(「私ってAなの~」)を、この人はどうやって選びだしたのか。

ねえ先生。たとえば刺激に対する反射みたいなモノはカウントできないのでしょーか。
クマの出没(刺激)
  → 恐怖(反射) 
    → 逃げろ!(how)
    → 闘え!(how)
    → 死んだふり(how)
こう書いてみると、今度は反射とhowの間を繋ぐものが気になります。『反射とhowを繋ぐもの』がhowを決定しているのでは?
てか、ここらへんが個人の好み(好き・嫌い)なんじゃーありませんかね・・・・って違いますね。すみません。

ああ、先生。やっぱり私には難しい。ち~~っともわかりません。
やっぱ当麻捜査官を呼ぶしか・・・・いやいや、そんなことしてもみっちり怒られた挙句にプイされるが関の山。はーあ。独学って難しい。

もしかしたらどこかに答えが書いてあったのかもしれませんが読み取り切れませんでした・・・。3章をもう1周するか、それとも4章の情緒に進むべきか。
あー哲学書読むのって難しい。


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